八十路の独り旅

八十路を元気で歩いています。先人の暮らしに想いを馳せ、未知なるものに憧れ、懐旧の念に浸りましょう。


 11月27日(金)

 最終日は秋月に行きました。一連の士族反乱の流れで秋月の乱が起きた土地ぐらいの淡い認識しかありませんでしたが、葉室麟氏の『秋月記』を読んで、いつか行ってみたいと思っていた場所の一つです。

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 朝倉市の観光協会がアクセスの方法を案内してくださっています。紅葉狩りの団体さまより先に着こうと、7時台の快速に乗りました。基山から甘木までは第三セクターのワンマンカー、甘木から秋月までは路線バスが走っていて、いずれも空いています。,

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 バスを下りたとたんに『秋月記』の世界です。まるで『秋月記』聖地めぐり状態でした。野鳥川のほとりに緒方春朔の顕彰碑が建っています。緒方春朔はジェンナーの牛痘法より6年早く人痘法で天然痘の予防に成功した秋月藩の藩医です。
 秋月の歴史は鎌倉時代の建仁3年(1203)に在地の豪族である秋月氏が古処山に城を築き、その麓に居館を築いたことに始まります。戦国時代には秋月氏は周辺地域を制圧して勢力を伸ばしますが、豊臣秀吉の九州征伐に抵抗したことで、日向国の高鍋へ移封されてしまいました。江戸時代の元和9年(1623)、福岡藩の初代藩主である黒田長政の三男、黒田長興が秋月城を築いて移り住んで以来、秋月藩の城下町として発展します。明治時代に入ると秋月藩は廃され秋月城も棄却されますが、その跡地には石垣や濠、大手門や長屋門などが残り、かつての様子を伝えています。

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 野鳥橋の下を流れる野鳥川。「のとり」と読みます。

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 かつて三ツ小路には武家屋敷が並んでいました。秋月の城下町は武家地と町人地に分けられ、武家地は小路で区分されていました。

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 杉の馬場は秋月城に向かうメインルートです。

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 古い民家を改築して造られた秋月美術館。

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 杉の馬場は静まりかえっていて、美術館も博物館もまだ開いていません。
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 藩校稽古館と戸波半九郎屋敷の跡地に建てられた朝倉市秋月博物館の冠木門。

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 戸倉半九郎屋敷の長屋門。

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 瓦坂は、かつて秋月城の前面の濠に造られた大平門(表門)に続く坂道で、当時はこの奥に黒門がありました。現在は黒門は少し離れた場所に移築されています。水の流れを防ぐために瓦を縦に並べて造られています。

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 嘉永3年(1850)に建てられた長屋門は秋月城の裏門で、当時の建物の中では、唯一もとの位置に残っています。

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 垂裕神社の鳥居の奥に黒門が移築されています。

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 黒門前の石段は手すりがなく、自然石のため滑りやすくて難易度マックスです。ご親切なご夫婦が手をかしてくださって、辛うじて這い上がりました。

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 杉の馬場を博物館方向に少し戻って、瓦坂の前から畑の中の道を通って春小路の久野邸に向かいました。

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 武家屋敷の維持も難しそうです。
 
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 中島衡平屋敷跡はこの先です。中島は幕末の秋月藩家老臼井亘理の学問の師で、開国近代化を説きますが、臼井が守旧派に惨殺されたとき、中島も殺害されました。
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 秋月武家屋敷久野邸です。腕木門は身分の高さがうかがえます。右側の仲間部屋は久野家の奉公人が常駐した部屋で、二階建てのものは珍しいそうです。400年たって老朽化していましたが、久光製薬の会長の御母堂が久野家の出であることから、同社が復元整備し、12月下旬から2月末までを除いて公開しています。久野邸は600坪の敷地に建てられ、家禄は130石の馬廻り役を務めた家柄です。偶然ですが、昨日訪ねた坂本家も馬廻り役でした。

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 母屋は茅葺の本屋と藩主から拝領した瓦葺の二階建てが続いています。

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 母屋には五つの部屋があります。

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 渡り廊下で結ばれた離れ座敷では茶会などが催されました。

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 離れ座敷。

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 土蔵は蔵資料館として久野家の資料の一部を展示しています。

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 屋敷の周りを池泉回遊式庭園が囲んでいます。

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 久野邸の前の杉の馬場と並行する道にも水路があり、久野邸の池の水は水路から引かれています。

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 野鳥川に架かる秋月橋を渡ると、朝、バスで通った国道に出ます。

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 『秋月記』に登場する久助から十代目になるそうですが、国道沿いに文政2年(1819)創業の廣久葛本舗が建っています。

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 お土産に買った本葛100%。お店で葛切りもいただきました。

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 お店から3,4分国道を下ると、『秋月記』に詳しく書かれた目鏡橋です。

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 野鳥川に架かる花崗岩を利用した目鏡橋は、文久7年(1810)に完成し、200年以上たった現在も現役の橋です。長崎の警備をしていた秋月藩8代目藩主・黒田長舒は、木造の橋が何度も洪水で流されるので、長崎で見た眼鏡橋と同じものを架橋したいと考えました。長崎から石工を呼び寄せて架橋工事が始まりますが、完成直前に崩壊し、病床にあった長舒は橋の完成を見ることなく逝去します。その2年後、工事は再開され、さらに翌年ついに完成したのが、長さ17.9メートル、幅4.6メートルの目鏡橋です。
 
 朝、甘木鉄道でご一緒で、半日、あちこちで出会ったご婦人に目鏡橋バス停でまた出会いました。ご令息の婚約が調って、親同士の顔合わせのために東京から来られ、今日だけ日程があいていたというお話ですが、休日は観光バスが押し寄せて、たいへんな渋滞になるとお店で聞かれたそうです。

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  JR基山駅。奥に見えるのが甘木鉄道基山駅。JRはバリアフリーですが、甘木鉄道は違います。バスと電車を乗り継いで、博多に戻りました。タクシーにホテルに寄っていただいて、荷物を受け取って、空港まで行き、なんとか家にたどり着きました。

 体調が万全でなく、あとで寄ろうと思っていた秋月博物館まで戻れなかったのがとても残念です。久留米はキリシタン三大名に数えられた有馬晴信の分家の領地であったため、キリシタンが多く、大きな教会もあった、神社・仏閣が破壊されたりした、というお話を坂本繁二郎生家で伺いましたが、秋月にもキリシタンが住んでいて、博物館には、その展示もあるようです。 秋月は朝倉市に属していますが、朝倉といえば斉明天皇が逝去した所です。磐井の乱から40年近くたった660年に百済が滅亡し、661年に百済復興のため自ら九州に赴いた斉明天皇は、5月に朝倉橘広庭宮に移り、7月に急逝しました。宮に鬼火が出た、病死者が続出したという記録があって、斉明天皇は磐井の残党に討たれたという説まで出る始末ですが、朝倉橘広庭宮の所在地は特定されていません。「乙巳の変」で譲位した皇極天皇が重祚した斉明天皇は、飛鳥の石造物や土木工事、はては異宗教との関連など謎めいた女帝で、亡くなったあと菩提を弔うために建てられた観世音寺も2日まえにお参りしたばかり。朝倉は機会があれば再訪したい場所です。

 今回は博多に2泊して各地を回りましたが、この旅程なら空港から西鉄久留米までバスで移動して、久留米を拠点に移動した方が楽だったかもしれないと思いました。



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  西鉄久留米駅前からバスで5分、久留米のシンボルのような石橋文化センターが二番目の目的地です。

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 石橋文化センターは、昭和31年(1956)年に株式会社ブリヂストンの創業者である石橋正二郎が創業25年を記念して郷土の久留米市に寄贈した、バラやツバキなど四季折々の花が彩る広大な庭園を有し、久留米市美術館をはじめ、音楽ホールや図書館を備える複合文化施設です。

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 まず最奥の八女から移築された坂本繁二郎のアトリエまで行きました。通常は内部は非公開です。

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 説明板に「この建物は、久留米出身の洋画家坂本繁二郎が創作の場として1931(昭和6)年5月に八女市に建築し、1980(昭和45)年3月にここに移築復元されたものです」と書いてありました。
 なだらかな坂道の周りは美しい日本庭園です。

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 滝のある池を眺めながら楽水亭でランチをいただきました。CIMG4233 (2)

 これもなにかのご縁と市立美術館で鴨居玲没後35年を記念した展覧会を拝見。
鴨居玲は、(1928~1985)は石川県金沢市に生まれ、金沢美術工芸専門学校(現 金沢美術工芸大学)で宮本三郎に学びました。1969年の安井賞受賞で一躍脚光を浴びると制作の拠点をフランスやスペインに移し、老人や酔っ払いに自身の姿を重ねる独自のスタイルを確立します。1977年に帰国し、神戸にアトリエを構えてからは、裸婦像の制作に本格的に取り組むなど新たな展開を見せますが、突如57歳で自らの人生に幕を下ろしました。

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 約100点の作品の中でいちばん心惹かれたのは、「望郷に歌う(故高英洋に」です。ステージの上で
スポットライトを浴びるチマチョゴリ姿の女性のモデルは、在日韓国人画家李景朝夫人の李順子です。
彼女の歌うアリランに感銘を受けて、親友の高英洋に捧げられました。

 西鉄久留米までバスで戻って、JR久留米行きに乗り替えようと思っていたのですが、足が言うことを
聞いてくれません。途方に暮れていたら、文化センターの向かいがタクシー会社で、車の掃除をしてい
た運転手さんと目が合いました。以心伝心、Uターンして来てくださって、久留米生まれの二人の画家の
生家に連れて行っていただきました。

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 青木繁が17歳まで暮らした旧居は転々と人手に渡り、老朽化したので、取り壊して駐車場
にする計画は持ち上がります。そのとき近隣住民有志が「青木繁旧居保存会」を立ち上げ
、街頭募金やキャンペーンを行ったのが原動力になって、復元整備され、平成15年に開館し
ます。案内してくださった方は、青木繁愛に満ち溢れた方でした。

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 座敷の床の間に飾られた絶筆の「朝日」は、佐賀県立小城高校同窓会が所有し、門外不出
なので、レプリカもこの1点しかないそうです。ぜひ見ていってほしいと熱く熱く語られまし
た。
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 復元の際、新材が使われましたが、床の間や広縁、階段、雨戸の反転金具、手水鉢は、も
とのままのものが使用されています。

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 庭の最奥に原寸大の「海の幸」ブロンズレリーフが展示されています。平成28年に保存会から寄贈されました。千葉県館山の記念館にも同じレリーフが設置されているそうです。

 待っていただいたタクシーで坂本繁二郎生家に向かいました。坂本繁二郎(1882~1969)は、高等小学校時代に青木繁と席を並べ、ともに洋画の道に進みます。20歳のときに上京し、39歳から42歳にかけてフランスで絵を学び、帰国後は八女市を永住の地と定めました。自宅から少し離れたところにアトリエを建て、87歳で亡くなるまで絵を描き続けました。代表作の「放牧三馬」「魚を持ってきた海女」などは、先日のアーティゾン美術館の「久留米をめぐる画家たち」で拝見したばかりです。

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 右側の式台を持つ表玄関は偉い人の出入り口で、一般人は正面の内玄関から入ります。青木が下級武士の子であったのに対して坂本は中級武士の家柄で、450坪の敷地に多くの部屋を持つ屋敷が建っています。

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 幕末から明治初期にかけて建てられて、その後、増改築が行われていますが、久留米市に残っている唯一の武家屋敷です。久留米市は、老朽化が進んでいた生家を昔の姿に戻すため、平成18年度から平成21年度にかけて解体復元工事を行い、平成22年5月1日から一般公開しています。復元にあたっては、古い部材を極力使用し、伝統的な工法で、繁二郎が上京して実家を離れた20歳のころの姿に建て直しています。青木繁が約3か月居候した茶室も復元し、彼らが描いたといわれる襖絵の複製も展示しています。ここにも熱心な係の方がおられて、広い屋敷を案内しながら、熱く語ってくださいました。

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 晩年の写真が飾られている座敷。

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 屋根裏は釘を使っていません。

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 「節分」という題の襖絵(複製)。繁という落款がありますが、繁か繁二郎かわからないそうです。

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 茶室に三か月ほど居候していた青木が描いた襖絵(複製)。画才のあった繁二郎の父が描いた絵の上に描いたため、繁二郎の母はご機嫌斜めだったそうです。

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 ここに土蔵がありました。

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 藁葺建物と瓦葺建物が結合しています。

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 大きなはね釣瓶。

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 裏側は公園になっていて、高層ビルの手前にJR久留米駅があります。

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 久留米発の車内は超閑散。博多に着いて、夕食は密や酔客が怖くてテイクアウトです。

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 11月26日(木)

 博多駅前のホテルに2泊しました。典型的なビジネスホテルですが、テーブルがあったのと、大浴場を独占使用できたので、まあ、いいかという感じです。宿泊客は圧倒的に男性が多く、暗証番号を入力すると扉が開く浴場は2日とも誰にも会いませんでした。駅から徒歩4分のはずが、足腰を傷め、ふらつきのとまらない身には、もっと遠く感じたし、博多駅前は自転車で疾走してくる人が多くて、恐怖です。

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 朝食会場はあまり混んでいなくて、ほっとしました。この日は久留米を訪ねますが、物好きにもJR久留米駅前から40分近くバスに乗っても行きたい場所がありました。それは6世紀前半に九州独立を目指して乱を起こし、大王に匹敵する巨大な前方後円墳に葬られたと伝えられる筑紫君磐井が住んだ八女の地域です。磐井の表記は『日本書紀』では「磐井」『古事記』では「竺紫君石井」、『筑後国風土記』逸文では「筑紫君磐井」となっていて、『日本書紀』では筑紫国造と記していますが、国造は後世の潤色とされました。ここでは磐井にしておきます。かつて歴史を学んだころは、皇国史観への反発から反権力的な出来事が称賛される風潮があり、磐井の乱も中世の山城国一揆などと並んで注目されていました。磐井のことはずっと頭の片隅にあって、いまでなければ、その地を踏むのは無理だと思って旅程に入れました。
 博多から久留米は新幹線で17分、鹿児島本線の快速なら40分。倹約して快速に乗りましたが、ラッシュアワーにもかかわらず車内は空いていました。八女営業所行の西鉄バスもガラガラです。久留米市から八女市に入って間もなく福島高校前に着きました。まず岩戸山古墳の前に建つ八女市岩戸山歴史文化交流館「いわいの郷」で「石製表飾品の変遷~勢期から衰退期まで~」と題する展示を見せていただきました。
 磐井の乱は、継体21年(527)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井がはばみ、継体22年(528)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱または王権間の戦争だと言われています。この反乱もしくは戦争の背景には、朝鮮半島南部の利権を巡るヤマト王権と、親新羅だった九州豪族との主導権争いがあったと推定できますが、磐井の勢力を独立した政治権力と認めるか否かで、評価が反乱か戦争かに分かれます。

 磐井の乱に関する文献史料は、ほぼ『日本書紀』に限られていますが、『筑後国風土記』逸文や『古事記』(継体天皇段)、『国造本紀』にも簡潔な記録が残っています。『筑後国風土記』には「官軍が急に攻めてきた」となっており、『古事記』には「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」とだけしか書かれていないなど、反乱を思わせる記述がないため、『日本書紀』の記述はかなり潤色されているとして、すべてを史実と見るのを疑問視する研究者もいます。歴史書の多くは勝者が書きますから、本当のところはわかりません。少なくとも八女では、磐井は八女の地を守り、九州を守ろうとした郷土の英雄だとみなされているようです。 


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 「いわいの郷」がリニューアルオープンして5年目を記念した展覧会は八女古墳群の出土品に加えて熊本県・佐賀県の古墳の出土品も展示され、見ごたえのあるものでした。主催した八女市・八女市教育委員会に大きな拍手を送りたいと思います。

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  展示室は貸切状態で、入場無料で撮影可という有難い展示です。あと3日で終了ですから、辛うじて間に合いました。「石製表飾品」とは、古墳の墳丘上やその周囲に樹立された石造物です。土製の埴輪を石製品に置き換えたもので、形象埴輪より大型のものが見られます。分布は築後から肥後にかけての有明海・八代海沿岸部、菊池川流域に集中し、この地域独自の葬送儀礼と考えられています。ずっと「石人・石馬」と呼ばれていましたが、それ以外のものも多いので、「石製表飾品」という名称が用いられるようになったというのは、初めて知りました。
 「石製表飾品」は、5世紀初頭から6世紀後半にかけて造られ、鳥取県の1例を除くと、九州中北部に集中しています。「石製表飾品」樹立古墳はは、出土が伝えられているものを含めても30例余りと少なく、分布は『日本書紀』に記された磐井の勢力圏である「筑紫・火・豊」と一致することから、北部九州の独自性を示すシンボルだと考えられています。
 「石製表飾品」は、基本的に古墳から1点から多くても10数点しか用いられていませんが、磐井の墓とされる岩戸山古墳から出土したもの、出土したと伝えられているものは100点に及んでおり、種類と数で他の古墳を圧倒しています。「石製表飾品」の種類は、人物(武装・平装・裸体)、動物(馬・猪・鶏・水鳥)、武器・武具(刀・盾・靫)、器材(壺・蓋・翳)など多種にわたります。
 磐井の乱ののち、石製品の樹立は急速に衰退したと考えられていましたが、文人や子どもを背負った女人石人が出土しているので、形を変えながら続いていたことがわかります。これまで見た関西や関東の古墳の出土品とは全く違う世界です。

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 右側の武装石人(鶴見山古墳)は重要文化財に指定されています。ヤマトの兵は乱ののち、ほとんどの石人・石馬の手足を打ち落としました。鶴見山古墳は磐井の子の葛子の墓ではないかと言われています。

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 石靫(岩戸山古墳)

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 武装石人頭部(伝岩戸山古墳)

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  石盾(岩戸山古墳) 

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 子負いの女性石人(童男山古墳群)は、鏡が置かれて、母親の背中にしがみついている子どもが確認できます。6世紀中ごろから後半の石人です。

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 中央に展示されている立山山8号墳出土の金製垂飾付耳飾は、朝鮮半島製と思われ、筑紫君一族と半島との緊密な関係がうかがえます。
 

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中身
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 中身の濃いい展示を拝見したあと、「いわいの郷」の裏側の岩戸山古墳に登ってみました。  

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 全長135mの岩戸山古墳は古墳は東西を主軸にして、後円部が東に向けられています。2段造成で、北東隅に「別区」と呼ばれる一辺43メートルの方形状区画を有するのは、日本で唯一の事例です。ここで裁判が行われたと推定され、出土した「石製表飾品」のレプリカが大きさを縮小してずらっと並んでいます。残念なことに、戦時中に開墾されたため、表土は荒らされてしまいました。内部主体は明らかになっていませんが、電気探査等で横穴式石室と推定される構造が確認されています。古くは後円部の墳頂に神社が鎮座していたので、盗掘を免れているかもしれません。伝応神天皇陵も墳頂に誉田八幡が祀られていたため、盗掘を免れている可能性がありますが、皇室関係の陵墓の調査はタブーです。


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 古墳は近くに寄ると、森にしか見えませんが後円部です、岩戸山古墳には古くから群生するツブラジイの原生林が広がっています。岩戸山古墳は磐井の生前に築造されたいわゆる寿陵ですが、磐井が見た光景とはまるで違うと思います。

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墳の出土品
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 八女市北部、東西10数kmからなる八女丘陵上に展開する八女古墳群は、5世紀から6世紀にかけての古墳が数多く築かれ、その数は前方後円墳12基、装飾古墳3基を含む約300基に及びます。年代的には磐井の祖父の時代の石人山古墳から磐井一族の繁栄が始まり、磐井の息子の葛子の墓に比定される鶴見山古墳を経て、童男山古墳を最後に約200年続いた八女古墳群は終焉を迎えます。その一端を体感できて、良かったと思います。

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 福岡県はあまりご縁がなかったので、市町村の位置関係がよくわかりません。八女市は南端です。帰りのバスは西鉄久留米駅前で下車しました。


 


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