八十路の独り旅

八十路を元気で歩いています。先人の暮らしに想いを馳せ、未知なるものに憧れ、懐旧の念に浸りましょう。

 昨日は欠食児童でしたから、今日こそランチ! 金谷ホテル発祥の地に建っている御用邸から数分のカテッジイン・レストランに着いたときは2時を過ぎていたので、テーブルは一つしか埋まっていませんでした。お店の前に植えられた芍薬を見て、幼いころに住んでいた家の周りが花卉農家の畑で、この時期は芍薬や菖蒲が見事だったのを思い出しました。

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 金谷ホテルベーカリーのパンと新鮮な素材を用いたセットメニューがご自慢のレストランでビーフシチューをいただきました。

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 隣接する金谷ホテル歴史館「金谷侍屋敷」は、このレストランで求めたメダルを入れるとゲートが開く仕組みです。雨宿り&時間つぶしのつもりで訪ねましたが、想像を上回りました。(個人の感想です)
 松屋敷に始まって、金谷ホテル歴史館で終わるなんて、金谷づくしの旅になってしまいましたが、金谷家の回し者ではありません。


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 ここでも説明役の方から熱のこもった解説を承りました。G、O、Nの3室は増築部分で、それ以外は日光奉行所役人の官舎として建てられた江戸時代の武士の住まいです。

代々東照宮の雅楽師を勤める金谷家に生まれ、自らも笙を担当する楽人であった善一郎は、ヘボン博士の進言により自宅を改造して「金谷ホテル」の前身となる「金谷カテッジイン」を21歳という若さで開業、日光を訪れる外国人が安心して泊まれる宿として評判を高めていきました。金谷家の家屋は江戸時代には武家屋敷であったことから、外国人客は「金谷カテッジイン」を Samurai House (侍屋敷) と呼んでいました。滞在したイザベラ・バードは著書の中で”。” (完訳 日本奥地紀行Ⅰ金坂清則訳)と書いています。善一郎と彼の家族が屋敷を隅々まで磨き上げ、清潔に保っていたことがわかります。

140年以上の間、同じ場所に保存されてきた「金谷侍屋敷」および「土蔵」は、平成26年(2014年)国の登録有形文化財となり、平成27年(2015年)3月より「金谷ホテル歴史館」として一般公開が始まりました。

日本が急速に西洋文化を受け入れはじめた明治の初期、日光に住むひとりの青年が開いた外国人のための宿泊施設がどのようなものであったのかを現代に伝える貴重な歴史文化財です。

「金谷侍屋敷」は日本最古の西洋式リゾートホテル「金谷ホテル」発祥の地というだけでなく、江戸時代の武家屋敷の建築様式をそのまま残す建築遺産でもあります。HPより

 
追記 帰宅後、イザベル・バードの『日本奥地紀行』を読んでいますが、こんなにも美しい部屋でなければよいのにと思うことしきりである、というくだりは、インクをこぼしたり、畳を傷つけたり、障子を破ったりしないか心配だからという文脈です。それまで泊まった宿屋と格段の差があることをかなり詳細に書いているので、その後の集客に大いに役立って、まさに案内役の方の言われる「恩人」だったと思います。

 
資料室から渡り廊下を通って屋敷に入ると、湯殿(A)と台所(B)が向かい合っています。湯殿は五右衛門風呂、台所には大谷石で作られた竈がありますが、どちらも子どものころに体験しています。入口に撮影禁止と書いてあったので、遠慮していたら、途中で案内役の方が撮ってもいいとおっしゃいました。かなり身分の高い武士の屋敷ならではの部分の写真を撮り損ねたのが残念です。刀を振るえないように天井や鴨居が低かったり、隠し扉や隠し階段があったり、用心深い造りでした。

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 1800年ごろに金谷家が屋敷を拝領し、金谷ホテルの創業者となる金谷善一郎は嘉永5年(1852)にこの屋敷で誕生しました。明治3年(1870)にアメリカ人宣教師ヘボン博士が日光を訪ねた際、善一郎が屋敷の一室を宿として提供します。ヘボン博士に外国人専用の宿の開業を勧められて明治6年(1873)に民宿「金谷カテッジイン」が誕生。最初は畳の部屋は四部屋でしたが、明治11年(1878)に12日間滞在したイザベラ・バードの旅行記の影響で宿泊客が増え、明治20年(1887)に3部屋が増築されました。説明役の方は、彼女は恩人だと言われています。

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 イザベラ・バードが滞在した部屋(M)です。廊下越しに表庭が見えたと書いています。

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 2階から見える北側の庭です。裏山から引き込む滝の水は家事に使われていました。

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 こういう火鉢、我が家にもありました。

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 7畳和室(P)は、通訳としてバードの旅に同行した伊藤鶴吉が泊まった部屋です。明治じゃないけど、こういう小さな櫓こたつもあったな。あった、あった、と感慨にふけってばかり。

 最後に庭園を歩きました。

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 土蔵②は嘉永4年に善一郎の父が建てたもので「金谷侍屋敷」とともに登録有形文化財に指定されています。切妻、平入、二階建、白漆喰壁の建物です。こちらの芍薬はまだちらほら。

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 横木を渡した質素な冠木門④は写真をもとに屋敷公開に合わせて再現したものです。
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 野菊の咲く踏石の先に正面玄関があります。
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 正面玄関は主人や客人が使い、家族や使用人は隣りの質素な玄関を使いました。玄関前の石板は一辺が150センチある大きなもので、江戸時代の創建時に置かれたものです。

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 芍薬や九輪草が苔に映えます。

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 石灯篭のなかでもユニークなのが「三すくみ」の燈篭です。得意と苦手を一つずつ持った蛇と蛙と蝸牛が睨み合って動きが取れない様子を描いています。

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 紅葉のころは見事でしょうね。

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 井戸の前の三月堂型燈篭

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 庭園の前はバス道路です。

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 ベンチや陶製の腰掛のある優しいお庭でした。

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 金谷ホテル歴史館前バス停は冠木門から徒歩0分です。この景色、イザベラ・バードの絵とあまり変わっていませんね。

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 また雨が激しくなって、おとなしく帰途につきました。えきネットで切符を買ったら乗車券・特急券が3割引きで片道2860円でした。確かに「トクだ値」です。沿線の田植え風景を見ていると、雨でもしかたがないと思えてきました。日光に行って、東照宮も輪王寺も華厳の滝も見ないで帰る人はあまりいないと思いますが、楽しかったから、まあ、いいか。慣れないデジカメで不出来な写真に磨きがかかってガッカリです。

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 5月29日(月) 雨

 雨でも困らない場所の候補に挙がったのが日光田母沢御用邸。シャトルバスが門前を通りましたので、位置は確認済です。路線バスで12:30ごろに御用邸まで徒歩1分のバス停に着きました。


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 白無垢姿のお嬢さんが結婚記念写真の前撮りをされていました。傘を広げるほどでもなく、玄関に駆け込んだら、来場者は私だけです。

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 中核となった建物は、紀州徳川家江戸中屋敷の中心部分で、中屋敷は明治5年(1872)に皇室に献上されて赤坂離宮となりました。その後、仮御所・東宮御所として使用されましたが、明治31年(1898)に解体、この地に移築され、大正天皇の御座所・御学問所・御寝室などに使われています。

 御用邸の敷地には日光出身の実業家小林年保が明治中期に建設した広大な「別荘庭園田母沢園」と小林家別邸が建っていましたが、のちに御用邸の一部となり、皇后御座所・皇后御寝所・御学問所などに使用されました。

 
戦後は、博物館や宿泊施設・研修施設として使用されたのち、栃木県が3年の歳月をかけて修復・整備し、平成12年(2000)から栃木県営都市公園として公開されています。これまでご縁のなかった大名屋敷と明治の民間邸宅のコラボが同時に見られて、これはこれでよか
ったと思います。

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 まず広間でビデオを拝見してから、106室ある建物を巡りました。黒いスーツを着用した男性が要所要所におられて、詳しいご説明があります。ゆっくり拝見したので1時間以上かかりました。

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 最初に御用邸の歴史や金具などを説明するコーナーがあります。部屋の格式によって金具や畳の縁も違うそうです。

金具は、それぞれの使用箇所や形状・機能によって大きく3つに分類されます。建物の構造を補強するのに必要な釘・鎹(かすがい)・丁番などの建築金物、部材を保護するための根巻や垂木・破風先を覆う包金物、そして実用的な機能に応じた襖引手などがあります。これらがより造形的になり装飾性をおびたものを総じて錺金具(かざりかなぐ)といいます。安土桃山時代には、書院造りの完成とともに、装飾品として違棚や長押の釘隠、格天井などに意匠性の高い錺金具が用いられました。また、山鉾(やまぼこ)などに見られるような祭具の装飾品としてもより煌びやかなものへと発展しました。HPより

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 所々に中庭があります。

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 紀州徳川家中屋敷にあった杉戸絵の一例です。紀州藩お抱え絵師だけではなくて、狩野家、住吉家、幕府お抱え絵師によって描かれたそうです。

 
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 表御食堂

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 2階にあがりました。

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 御座所は紀州徳川家中屋敷時代は「御小座敷」と呼ばれ、絵図面を見ると炉が切ってあるので、「広間の茶室」として使われていることがわかります。明治6年に皇居が焼失したのち約16年間、赤坂仮御所として明治天皇の御座所となっています。

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 御学問所

御学問所は創られた当時から梅の間と呼び慣わされてきました。天保11年の創建時は9帖で格挟間形の付書院と違い棚を備えた、現在よりも華やかな部屋でした。日光の田母沢に移築する前に増改築されて、現在の21.5帖の広さになりました。旧紀州徳川家江戸中屋敷当時の姿を伝えるこの部分は、書院様式に数寄屋風の意匠を取り入れることで、当主の好みを感じさせる私的な空間を作り出しています。天皇陛下の書斎として使用されました。 HPより

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 御寝室も2階にあります。

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 狩野家の作品です。

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 女官の部屋です。和風建築ですが、一部に絨毯やシャンデリアなどを用いた和洋折衷の生活様式が採り入れられています。

 1時間ほど見学していたら、雨がやみましたので、池泉庭園を巡りました。

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 この部分は小林家別邸の庭園でした。

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 ナスヒオウギアヤメとクリンソウ。

【ナスヒオウギアヤメとは・・・】
栃木・那須地方一ツ樅付近の小川に自生するものを、川村文吾生物学御研究所員が発見し、原寛博士が「那須の植物誌(著書:昭和天皇)」に記載したヒオウギアヤメの一変種です。
高さ約1メートルの花茎の先に紫色の花をつけます。花茎は枝分かれし、内花被片は先のとがったひょうたん型で、ヒオウギアヤメに比べ大きいです。ナスヒオウギアヤメは絶滅危惧種で、栃木県では絶滅危惧I類(Aランク)に、環境省では絶滅危惧Ⅱ類に指定されています。平成16年に陛下の御意向により宮内庁から栃木県に贈られ、一部が当記念公園に移植されています。HPより


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 一生分のクリンソウを見せていただいて、さあ、ランチ。日曜なのに、ひっそりとした御用邸でした。   

5月28(日)~29日(月) 

 
中禅寺金谷ホテルは林の中の素敵なホテルです。お部屋は3階でしたが、階段だけの日光金谷ホテルと違ってバリアフリーで、お一人様用の部屋も用意されています。すべての部屋にテラスがあって、木製の椅子が置いてありました。

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 最近、こういうカギは珍しくなりましたね。木材がふんだんに使われているのに、ドアは頑丈な金属製で、遮音性に優れています。

 早速、温泉で足のご機嫌をとりましたが、別棟の大浴場まで遠いのが唯一の難点。次回は大浴場に近い部屋をリクエストしようと思います。

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 3階のエレベーター前の椅子とフクロウがいい感じ。

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 夕食も朝食も「みずなら」でお庭を見ながらいただきました。食材は地産地消を謳って、地元産がたくさん使われています。

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 本日のオードブル・サラダ仕立て

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 そら豆のポタージュ

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 パンはとても美味しかったのですが、4個は無理。

 ここで春キャベツのキッシュと伊佐木のパネ 戦場ヶ原の根セロリとサワークリームのピュレ 石橋ごぼうと生姜のソースが供されたのですが、見事に写真を撮り忘れました。

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 那須野ケ原牛サーロインと新玉ねぎのロティ 春香うどと那須三元豚ハムのソース 春のお野菜添え

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 本日のデザート

 どのお皿もセンスがよく、美味しくいただきました。松屋敷の方が日光金谷ホテルが伝統的なレシピを踏襲しているのに対して、中禅寺金谷ホテルは料理長の裁量に任されているので、お食事がとてもいいと言われていましたが、そのとおりです。

 夜、露天風呂に入っていたら、雨が降ってきました。天気予報は的中です。時刻表と格闘して、翌日の予定は大幅に変更しました。こういうときにスマホがないのは非常に不便です。

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 朝食は卵料理、ハム・ソーセージ類、ジュースなどは、好みのものを選べます。オムレツとハム、トマトジュースをお願いしました。いわゆるバイキングは大嫌いで、それしか選択肢のないホテルだと素泊まりです。このホテルはルームサービスもお願いできますから、最悪、車いすでも来られると思いました。

 まずゆっくり温泉を楽しんで、ホテルの中を探検して、お土産を買い込んで、そのあとは11:10のシャトルバスの発車まで図書室で読書。5分歩けば路線バスに乗れますが、雨の坂道を歩きたくありません。こんなにのんびりした旅は前代未聞、ロビーで素敵なご夫婦とお話ができて、雨もまた楽し、です。

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 ロビーの暖炉に火が入るころに再訪したいものです。薪がたくさん積んでありました。

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 2階に宿泊者専用のサロンがあります。コーヒーと紅茶が用意されていました。

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 雨の庭がしっとりと美しい。

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 いろいろな椅子を見ているだけでも楽しめます。

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 ホテルの前庭を紅白のツツジが彩っていました。こちらはアカヤシオ。

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 シロヤシオ。

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 シャトルバスは満席です。隣席のカップルが咳き込みながらノーマスクで談笑するので、気が気ではありません。 
 中禅寺湖は霧に包まれ、男体山も朧です。バスの窓から傘を差した小学生の長い行列を見て、ああ、かわいそう。次があれば英国大使館別荘や立木観音に行きたいものです。いろは坂は下りのほうがスリルがありました。

 東武日光駅のコインロッカーに荷物を預けて、東武バスでバス停が目の前で屋根のある二か所を目指しました。


5月28日(日) 晴 

 出発前夜に操作ミスでスマホにロックがかかってしまって、深夜まであがきましたが、何をしてもダメ。長期間お蔵入りのデジカメを引っ張り出して急いで充電してあたふたと出かけました。いつもにも増して見苦しい写真ばかりです。

 かなり以前からフォローしていたブログに「山と温泉のきろく」があります。登山は無理ですし、温泉もとくに思い入れがあるわけではないのですが、共通するテーマは公共交通機関を利用した女性の独り旅。心ならずも独り旅を余儀なくされた身にとって居心地のよい宿の情報は貴重です。ブログを書いていた方はやがて世間の注目を浴びるようになられて、著書を出版されたら、もう7刷。お仕事をされているので土曜日も独りで泊まれて、温泉があって、美味しいお食事ができるところがターゲット。観光は興味がなく登山がご趣味ですから、私とは目指す部分がかなり違います。価値観はそれぞれ、旅のスタイルもそれぞれ、多くの情報の中から、身の丈にあったものを享受したいと思っています。電話が苦手で、ネットでは予約できないが電話したらOKだったはNOというのは同じですし、写真がたくさん載せられていて、詳細なレポートが拝読できるので有難いブログです。
 前置きが長くなりましたが、1泊でふらっと出かけたのは中禅寺湖金谷ホテルの紹介記事に惹かれたのが理由の一つです。新宿から東武日光まで特急で行けるのも、その方のブログで知りました。

中禅寺金谷ホテル 宿泊記 栃木県産食材たっぷりのフレンチフルコースと極上の硫黄泉を楽しめる湖畔の宿に一人泊 

 もう一つは、これも長らくPCの中の「行きたいところ」ファイルに入っていた庭園訪問です。どこでこの庭園の存在を知ったかも忘れてしまいましたが、おそらく限定公開が始まった2016年の新聞の記事だったと思います。詳細は下記のサイトに委ねることにして、冒頭の部分を転載させていただきました。転載部分は緑色の文字になっています。公開される日は限られていて、夏と紅葉の時期以外は月末の土日だけです。

 新宿発の特急スペーシア日光1号は9:34発、11:30着で、6番線発車ですから、中央線のホームからはけっこう歩きます。座席は半分ぐらいが埋まっていました。東武日光駅に着くと目指す庭園はタクシーしかアクセスの方法がありません。大谷川に沿った道から山道を走って、松屋敷までのタクシー代は1200円でした。神橋バス停から徒歩15分ということですが、急坂が続きますから健脚を誇る方以外はタクシー一択です。
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日光 松屋敷 (matsuyashiki.com)

栃木県日光市、世界遺産である二社一寺「東照宮」「二荒山神社」「輪王寺」のほど近くの高台に敷地約1万坪に及ぶ庭園があります。
敷地内に建つ日本家屋を含めてその場所が「松屋敷」と呼ばれるようになったのは100年以上前(大正時代)からの事です。その名前の由来となった150本を超す赤松を始め、春の梅、山桜、山つつじ、新緑の初夏から万緑の盛夏、そして松屋敷がその美しさを最も際立たせる紅葉の秋、小さな滝の音、心地よいそよ風、鳥の声、そして野生の鹿が遊ぶ庭は今もなお四季折々その豊かな自然と景観を保ち続けています。
私有地であることから一部の人にしか知られていなかったこの松屋敷は、「金谷家ゆかりの庭園」として2016年4月より庭園のみ限定公開をしております。

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 木立の奥の松屋敷の玄関で和服を召した二人の婦人が迎えてくださいました。入場料を納めると首から下げる入園証をいただいて、園内案内図の前で丁寧なご説明があります。

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 来園者は私だけでした。1万坪の庭園を独占散策できるなんて、幸せ! 赤い矢印の順路に沿って巡りました。高名な作庭家が造園された庭園と比べてはいけません。巨木に囲まれた幽邃な雰囲気を楽しまなくては。

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 池の畔のクリンソウがピンクの花を咲かせていました。サクラソウに似たかわいい花の姿がお寺の屋根にある九輪に似ているので、九輪草と名付けられた山野草です。


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 眼下に見えるのは日光小学校です。

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 台風で倒れた巨木は運び出すすべがなくて、横たわっていました。

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導水管及び発電施設跡
敷地の東側の崖の上に自家水力発電施設跡があります。
明治時代後半から昭和20年代まで、赤沢川から取水した水を崖下へ落して発電していました。発電機はドイツのシーメンス社のもので、作られた電気は金谷ホテルへ供給していました。
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 水力発電にかかわる水神を祀った水神社がひっそりとたたずんでいます。

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 あずま滝のせせらぎの音だけが響く静かな庭園でした。

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 隣接する広場にクリンソウが群生していると教えていただきました。

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 池の中に鬼が支える燈篭があって、鬼の視線はこの仏像に向けられているそうです。

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 入口付近に不思議な句碑がありました。写真では判然としませんが「紀文句碑」と題して「右 大日堂 左 含満 紀文 雨晴れて 水清けや 大谷川」と彫られています。以下は説明文です。

 紀文は紀伊国屋文左衛門。姓は五十嵐。江戸中期の豪商。みかん船で知られ、後に江戸の大火で木曽の木材を売って巨万の財を成した。
 俳句をたしなんだといわれるが、本人が日光に来たかどうかは、わからない。
 道標を兼ねた句碑で、建立は、宝暦十三年未癸歳(一七六三年)とあり、紀文没後29年を経ているので、家族か関係者の建立らしい。
   日光文学碑散策路 昭和六十一年設定 日光市

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 初めて可憐なクリンソウの群生を見ました。中禅寺湖の千手が浜に見事な群生地があるそうですが、5月はたどり着ける交通手段がありません。


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 この燈篭の下部に鬼がいますが、下手な写真で判然といたしません。

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 松屋敷は非公開ですが、五角堂につながる廊下から一部の部屋が見られます。屏風は古い着物の生地を貼り交ぜにしたというご説明でした。

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 五角堂から眺める庭園がいちばん美しいのだそうです。
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 帰りに絵葉書をいただきました。

 このあと小杉放菴記念館を訪ねる予定でしたが、徒歩5分、327mとはいえ、急坂に恐れをなして、中止。タクシーを呼んでいただいて、日光金谷ホテルでランチをいただいたのち、ホテルのシャトルバスで今夜のお宿に向かおうと思ったのですが・・・。


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 金谷ホテルで恭しく出迎えていただいて、ランチをいただきたいと申しましたら、満席で40分待ち! 見渡すと観光バスが数台停車しています。急坂の途中のステーキハウスに行ったら、50分待ち! 坂下の金谷ベーカリーでテイクアウトしたパンを神社の境内でいただくという侘しいランチになりました。

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 坂の途中に日光最古のお社と伝わる「星の宮」があります。

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 フロントカウンターに向かって右側の奥に庭園をのぞむロビーがあります。
どなたでも無料でご利用いただけるパブリックスペースです。
散策の足休めやお待ち合わせなどに、どうぞご利用ください。

 シャトルバスが発車する14:40の少し前にホテルに戻ると、ロビーで休憩するようにとお勧めいただきました。あとでHPを見ると、広く開放されています。さすがですね。ロビーは開業当時の姿を留めています。別館が工事中で7月15日からリニューアルオープンだそうです。
 

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松下閑談(昭和10年代前半)

 上掲の小杉放菴の作品に出雲の旅で出会って、日光二荒山神社の神職の家に生まれ、記念館があると知って、行きたかったのですが、果たせませんでした。

 東武日光駅を14:30に発車したシャトルバスが着いて、新緑のいろは坂や中禅寺湖に見とれているうちに中禅寺金谷ホテルに着きました。



 
 新白河駅の高原口でバスを下りて、まずコインロッカーにカートを預け、お土産屋さんで品定めをして、東口のバスターミナルに向かいました。

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 東口ー南湖公園 12:05ー12:11 

 1時間に1便の磐城棚倉行のバスは少し遅れてきました。心配になるほどガラガラです。


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 地図の一番下のバス停「南湖公園」で下車、進行方向に歩いて最初の信号を左折。すぐそばだと思ったのは浅はかすぎました。5分ほどで湖畔に着いたのですが、目的地の翆楽苑は対岸です。

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 12代白河藩主・松平定信(楽翁公)が「大沼」と呼ばれていた湿地帯に堤を作って水を貯め、庭園の要素を取り入れて享和元年(1801)に築造されました。当初は単に「南湖」と称されました。南湖の名は、中国唐時代の詩人李白が洞庭湖に詠んだ詩「南湖秋水夜無煙」から、また「小峰城」の南に位置することから名づけられたと伝えられます。
定信は、武士も庶民も共に楽しむ「士民共楽」という理念のもと南湖を築造しました。
大正13年には「南湖公園」として国の史跡名勝となり、定信の理念とともに現在に受け継がれています。植えられた松・桜、楓などは四季折々に典雅な風趣をたたえ、多くの人びとを魅了し続けています。

 出発前から「やめろ、やめろ」と囁く足腰をなだめてなんとかスケジュールをこなしましたが、前日の悪天候も手伝って悪化、翆楽亭まで30分ほどかかりました。受付の方に帰りのタクシーを呼んでいただけるかを確認してから平成7年(1995)に完成した近代庭園を独り占めです。

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 私の下手な写真ではその美しさが捉えられていませんので、関心のある方は下記のサイトをご覧ください。

翠楽苑 借景の美しい池泉回遊式庭園(福島県白河市)-庭園ガイド (garden-guide.jp)

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 上掲のサイトの作者も書いておられますが、呈茶券を求めて松楽亭から眺めた景色が最高だと思います。

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 四阿で小憩。

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 井筒広場に岩の隙間から水が迸る仕掛けがありました。

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 茶室「秋水庵」は非公開でした。

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 湿生園の奥にも四阿があります。

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 滝石組を囲む植生はすっかり春です。

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 椿は散りかけていました。

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 万葉の小径は、各地にいくつかありますが、『万葉集』に出てくる植物が植えられています。

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 書院造りの松楽亭で茶菓をいただきました。

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 タクシーは5分で来ました。運転手さんのお話では、棚倉行のバスが通る道は、かつてJRの鉄道が敷かれていたそうです。今年は暖冬で雪も少なく、桜も早々と散ってしまったと言われていました。早めに駅に着いたので、持っていた特急券より1時間前に変更していただいて、車内で遅めの昼食をいただきました。多くの場合、少しゆとりのある時間帯の特急券を確保して、順調にいけば変更していただいています。京都駅の場合は新幹線の改札で変更できるので、とても簡単です。郡山で求めたお弁当、お米がびっくりするほど美味。

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 郡山のブランド米「ASAKAMAI 887」を買いたいと思って調べたら、2㌔で2500円+送料1200円だそうで、うーん、お高い。

 福島県は50年前に会津若松・五色沼・大内宿などを訪ねましたが、飯盛山にムッソリーニから贈られたという円柱が立っていたという記憶があるだけで、あとはほとんど忘れました。2015年に飯坂温泉・福島市内と花見山・白水阿弥陀堂などを巡って、白水阿弥陀堂は福島一だと思っています。
 今回の旅は計画どおりに事が運ばなかった場面もありましたが、それはそれで一興で、体力・気力・知力に見合った手作りの旅を存分に楽しめました。じつは年末年始を我が家以外のところで過ごすという案が娘から出ていて、その下見も兼ねていますが、まだ手探り状態です。

 歩数 13152歩


 もう10年以上前になりますが、Twitterを始めたころ、ある場所の自然について発信をされている方をフォローしました。それが福島県岩瀬郡天栄村のブリティッシュヒルズです。生物学と環境科学の専門家の自然への細やかな思いが伝わって、いつか行ってみたいなと思っていましたが、これ以上年を取ると行けなくなると思って、福島県で気になる場所の一つの南湖公園とつなぐ旅を計画してみました。

  ブリティッシュヒルズは、1994年にスコットランドのハイランド地方に近い風土の羽鳥湖高原の7万3000坪の敷地に語学研修施設としてスタートします。「疑似の疑似研修では意味がない」という理念から建築資材はすべて英国から取り寄せ、建築様式からインテリアに至るまで時代考証に基づいて設えました。詳しいことは下記のサイトを参照してください。

コンセプト|ブリティッシュヒルズ (british-hills.co.jp)

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 新白河駅から送迎バスが出ています。14時45分発のバスを予約して発着する高原口(西口)に行くと、グリーンのハイエースがすでに来ていて、外国人の女性がお一人おられ、定刻に外国人男性一人、計3人で雨中の高原ドライブ開始です。かなりの雨脚のなか高低差とカーブの多い道を走って40分で別世界に。
 
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 レセプションでチェックイン。英語か日本語かと聞かれて、もちろん日本語です。

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 お食事時間は研修に来ている学生さんと重ならないようあらかじめ設定されています。ホテルと言っていいのかどうかわかりませんが、バリアフリーではありません。けっこう階段や段差が多いし、手すりもない。スタッフの方がカートを引いて、部屋まで案内してくださったのは特別の恩恵だったようです。我が家はドレイク。どうせならターナーがいいなと言ってはいけません。この棟がいちばん主要施設に近いのです。
 紛失すると6600円という時代物の鍵でお部屋に入りました。ベッドルーム、リビングルーム、バスルームに分かれていて、家具調度は空気清浄機以外は重厚なアンティーク。学生向けのドミトリーを除けばいちばん狭い35㎡のお部屋です。

ベッドルーム

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リビングルーム

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 テレビは戸棚の中に納まっていました。

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 寝っ転がってテレビは無理。

 暖房器具も木製のカバーで覆われています。無垢の木の家具に囲まれていい気分ですが、残念なことが二つ。一つはコンセントプレートが普及品のプラスティック製だったこと。もう一つはカーテンが共布で束ねられていたこと。家を建てるとき、どちらもかなり凝った部分でしたので、タッセルや房掛けが気になります。

バスルーム


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 タオル掛けは、まあまあかな。バスタブは大きすぎて溺れそうでした。バスルームのタイルでいちばん好みだったのは奈良ホテルです。

 ディナーに際してリフェクトリーは「ドレスコードあり」なので、恐れ慄いてカジュアルなフォルスタッフパブを選びました。

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シーズナルパブディナーメニュー(4月~6月)♦

・自家製スモークサーモン、小イモ、空豆のサラダ仕立て
・カブのスープ
・牛ロースカットステーキ グレビーソース ジャーマンポテト
コリアンダーのジェノベーゼ添え
・苺とピスタチオのムース  グラス仕立て

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 いちばんシンプルなメニューです。客は私を含めて3組だけでしたが、非日常な世界を満喫いたしました。

歩数  11151歩

4月27日(木)

 
天気予報はまたも的中。昨夜の風雨が嘘のようです。

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 早朝、カーテンを開けると雨はやんでいます。けっこう寒いのですが、あたりを散策しましょう。

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 階段を上るとフォルスタッフパブ。

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 昨夜は雨が降って暗くてこわごわ行ったフォルスタッフパブ。

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 わが屋敷です。

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 チョーサー棟とベントリー棟

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 正面がレセプションのあるマナーハウス。そろそろ朝食の時間です。

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 長い廊下の先がメインダイニング。

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 おひとり様は私だけ。

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 朝食はビュッフェスタイルです。

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 出発の一週間前に予約担当の方から電話があって、雪が降っているというお話でした。さすがに雪はありませんが、標高1000mの高原は早春の雰囲気です。

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 チョーサー棟とニュートン棟、右端はホルバイン棟。

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 ベントリー棟の前の花壇も少し寂しい感じです。

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 唯一あったニュートン棟の前のベンチ。もっとベンチがあったら、嬉しいのですが・・・。

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 各棟の二階にサロンが設けられていて、コーヒー、紅茶がいただけます。

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 10時のチェックアウトのあと10時45分の送迎バス発車までロビーで寛ぎました。

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 帰りのバスは6人でした。ようやく若葉が枝を飾る林を約20分走って、民家がちらほら。途中で通過した羽鳥湖周辺は朽ち果てた別荘や閉店したお店が多く、侘しい感じです。まだ田植え前の田んぼを見ながらさらに10分で、市街地に入りました。
 新白河駅のコインロッカーにカートを入れて、最後の目的地に向かいます。とても素敵な場所でしたが、圧倒的に平均年齢が若く、高齢者が一人で来る場所ではないという思いは拭えません。

4月26日(水)
 天気予報は的中し、朝から雨。しかもこの日の午前に訪問予定だった場所が休館日と知って、ない知恵を絞りました。行こうと思っていた可月亭庭園美術館は御薬園の作庭にかかわった目黒浄定の作と伝えられ、宅地化の危機に瀕している攬勝亭とともに会津三庭園の一つに数えられています。当初から予定に入れて、JRの乗車券は最寄りの西若松まで買ってありました。ただ、かなり情報が乏しく公式HPも2019年から更新されていません。造園業者さんのブログで存続していることはわかりましたが、開館日や開館時間がはっきりしません。ぎりぎりになって、どうも水曜は休みらしいとわかりました。
 ではどうしましょう。無い知恵を絞って、七日町通りに行ってみるか、となりました。前の日に「まちなか周遊バス」で通った場所ですが、JR只見線の七日町駅まで持っている乗車券が使えるという極めてセコイ気持ちも手伝いました。会津若松発の只見線の最初の駅が七日町、次が西若松です。会津若松駅はエレベーター完備だと思っていましたが、只見線は階段しかありません。3分で着きました。

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 只見線七日町駅です。なにも調べずに来ましたが、目の前の阿弥陀寺は事前調査の網にかすかにかかった場所です。

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 蒲生氏郷が領主だった慶長8年(1603)、良然和尚が開山した阿弥陀寺は戊辰戦争にかかわりのあるお寺です。会津では新政府軍を西軍、佐幕派の軍隊を東軍と呼んでいて、阿弥陀寺には東軍の戦死者が葬られています。東軍の戦死者は野晒しにされたと言われていましたが、2017年に東軍の戦死者567名が降伏後10日で埋葬されたという記録が見つかりました。1868年9月22日に松平容保親子は会津若松で最初に訪ねた白露庭での降伏式に臨んでいます。
 修学旅行生の姿があったのは、新選組の斎藤一のお墓があるからでしょうね。斎藤一は大正時代まで命を長らえますが、東軍墓地に葬ってほしいと言い残したそうです。

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 境内の奥に見えるのは東軍墓地と「御三階」です。

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 戊辰戦争で堂宇が焼失したので、小天守にあたる「御三階」を移築して仮の本堂にしていました。玄関部分の唐破風は鶴ヶ城の本丸御殿の玄関の一部を移築したものです。歴史的には重要な遺構ですが、あまり美しいとは思えません。

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 墓地側から見た側面のほうがすっきりしています。

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 若い方には人気がある七日町通りを散策してみました。雨は傘を差すほどではありません。

大正浪漫の雰囲気のただよう七日町通りは、藩政時代には、会津五街道のうち日光、越後、米沢街道の主要道路が通り、城下の西の玄関口として問屋や旅籠、料理屋が軒を連ねていました。明治時代以降も重要な通りとして繁栄を極め、昭和30年代頃までは、会津一の繁華街としてにぎわっていました。その後、一度衰退したこの通りは現在大正浪漫を感じられる通りとして甦り、観光客に人気の通りとなっています。

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 字が小さすぎてまるで役にたちませんが、駅から日光街道をこの地図の範囲で歩きました。

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大正浪漫 渋川問屋 | 会津の郷土料理を海産物問屋の趣とともに (shibukawadonya.com)

 駅のそばの渋川問屋で意外な情報を目にしました。明治時代に建てられた渋川問屋は、郷土料理のお店になっていて、ニシン蔵を改造した宿泊施設の別館もあります。かつては北前船で運ばれた身欠きニシンんや棒鱈など海産物の問屋として栄えていた渋川問屋は、民間人でありながら2.26事件で処刑された渋川善助の生家です。戊辰戦争(会津戦争)だけでも重いのに、ますます重たくなってしまうではありませんか。

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本家‣長門屋
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ほしばん絵ローソク店
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横田新 夢の蔵

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 会津の風土や文化などの原風景を、イラスト風に描いた横田新の作品が展示されているミニミニ美術館。
 横田新は、福島民報社の記者時代に会津に魅了され、会津を墨絵タッチで描き続けた。
 大正14(1925)年~平成22(2010)年。
 「とうふ茶屋 清水庵」の蔵を利用して「太郎庵七日町菓房」が開店した際、隣りの「じねん亭鶴乃舞」の蔵を利用して開館した。

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関漆器店と太郎庵
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 ここまで来て、時間切れ。只見線は本数が非常に少ないのです。

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 会津若松駅に戻って、荷物を受け取り磐越西線に乗車。奥の赤茶色の建物が1泊したホテルです。典型的なビジネスホテルで風情など皆無ですが、清掃とリネン類は完璧に清潔でした。行程がハードな場合は、なにがなんでも駅至近です。

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 昼食は駅弁です。「会津を紡ぐわっぱめし」は会津若松駅と郡山駅だけで売っていて、すぐ売り切れてしまいます。包み紙のデザインは「会津木綿」、ニシンもイカも干物を戻して揚げた郷土料理です。昨日は車窓から見とれた磐梯山や遠くの雪嶺は悪天候で霞か雲か状態でしたので、楽しく美味しくいただきました。

【おしながき】
・白米(会津産コシヒカリ)
・会津地鶏そぼろ
・会津地鶏玉子そぼろ
・会津地鶏だし巻玉子
・にしん天ぷら
・いか天ぷら
・ぜんまい煮
・どっさりきのこ煮
・アスパラ焼き
・花人参煮


会津若松ー郡山 11:30-12:36(磐越西線) 
郡山ー新白河 12:50-13:30(東北本線)

 新白河駅構内は開放的な場所に木製の椅子とテーブル、おまけにピアノまであって、送迎バスが来るまで情報収集や休息ができました。人の行き来も少ないし、落ち着けます。

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送迎バス 14:45-15:25 ブリティッシュヒルズ泊  


 「鶴ヶ城三の丸」から周遊バスに乗りましたが、10分ほど遅れてきました。ハイシーズンはもっと遅れるかもしれません。次の目的地は御薬園です。着いた時点で15時15分でした。

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 「名勝 会津松平家庭園」と刻んだ石柱が立っています。

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 いただいたパンフレットによると、室町時代の至徳年間(1384ー1386)に朝日保方という老人がこの地にあった薬泉を用いて病人を助けた、薬泉は「鶴ケ清水」と名付けられ、保方を祀る「朝日神社」が建てられた、という伝承のある場所です。その後、永享年間(1429ー1441)に会津領主葦名盛久がこの地に別荘を建てた、天正年間(1573ー1593)に葦名盛氏が荒廃した別荘を復興したというのも伝承です。
 寛永20年以降(1643~)に会津松平家藩祖保科正之が別荘を再建し、二代藩主保科正経が園内で薬草を栽培した、三代藩主松平正容が朝鮮人参を試植し、広く民間に奨励したので「御薬園」と呼ばれるようになったというのは、確実に史実と言えそうです。
 ※会津藩主保科家は三代正容のときに松平姓と葵紋を許されたので、以後、会津松平家を名乗ります。


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 現在の御薬園は1.7㌶の敷地の中央に心字池を持つ池泉回遊式庭園で、池の中央に亀島があり、楽寿亭が建っています。

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 ずっと歩きっぱなし、立ちっぱなしでしたので、まず池の西側の御茶屋御殿でお抹茶をいただきました。御茶屋御殿は元禄9年(1696)に建てられ、藩主の休息のほか上席の役人や藩御用頭取などが招かれることもありました。戊辰戦争の際は西軍傷病者の治療所として使われたため戦火を免れた建物です。

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 正面に建つ楽寿亭を眺めていると、心も体も休まりました。水鳥も楽しそうです。元禄9年(1696)に目黒浄定による大改修が行われ、東山を借景に取り入れた庭園になりました。樹木が茂りすぎて、山はほとんど見えません。目黒浄定は江戸幕府の御用庭師と言われていますが、作例は会津地方に集中しています。

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 回遊開始です。朝鮮人参の栽培を奨励した三代藩主の意思をついで、薬用植物標本園では400種類の薬木・薬草が育てられています。

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 三層石塔は鎌倉時代の作と伝えられていますが、詳細はわかりません。

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 楽寿亭と御茶屋御殿が眺められる撮影スポットです。

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 猪苗代湖北西岸の戸の口から引かれた戸の口用水の清水が女滝から池に注いでいます。戸の口用水は江戸時代初期から200年の歳月をかけて完成し、鶴ヶ城のお堀や市内を潤してきました。

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 与謝野晶子歌碑 「秋風に荷葉うらがれ 香を放つ おん薬園の 池をめぐれば」

 与謝野晶子は会津を二度訪れ、昭和11年には昨夜泊まった裏磐梯高原ホテルが建っている場所にあった会津若松の宮森・遠藤家所有の別荘に宿泊しています。


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 楽寿亭は藩主や藩重役などの納涼や観光の場であり、茶席や密儀の場としても使われていました。数寄屋風茅葺の平屋です。

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 順路に従って出口に向かうと、お土産売り場を通過しないと出られない構造になっています。バスの時間が迫っているので、強行突破して申し訳ありません。

 4分ほどで武家屋敷前に到着。疲れていたのでパスのつもりでしたが、出来心で下りてしまいました。チケットには博物館と書いてありますが、一種のテーマパークです。

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 復元された家老屋敷(西郷頼母邸)がメインです。敷地面積2400坪、建築面積280坪、部屋数38室、畳の数は328枚という広大な屋敷は追手門前に建っていました。

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 大河ドラマで西田敏行さんが演じていた西郷頼母の心情は計り知れません。 
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 表の門の片方にあったことから片長屋と称され、家臣の居宅やかご部屋がありました。

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 現在は会津の幕末期を中心とする歴史資料館になっています。
 一族の女性が自害する場面が視覚化してあって、目を伏せてそそくさと通り過ぎました。

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 直径4mの水車が稼働しています。
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 裏門を通って旧中畑陣屋に向かいます。
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 幕府直参5000石の旗本・松平軍次郎の代官所として中畑村など七ケ村を支配した建物を現在の矢吹町から移築復元し建物で、福島県の重要文化財に指定されています。
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 嶺南庵麟閣といいます。蒲生氏郷公の庇護のもと少庵(千利休の次男)は鶴ヶ城の城内に麟閣を作りました。その遺構の流れを汲んで再現された茶室です。
 市内循環バスで駅前に戻りましたが、ホテルのレストランが定休日。しかたなくテイクアウトです。  
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4月25日(火) 
ホテルー猪苗代  10:10-10:40 送迎バス
猪苗代ー会津若松  10:52-11:21 
 会津若松に着いて、例のごとく駅に一番近いホテルにチェックイン。昨日のホテルとは格段の差であることはよくよく承知しています。荷物を預けて、会津バスチケット売り場で「まちなか周遊バス」の一日フリー乗車券600円を購入。「はいからさん」と「あかべえ」というバスが30分間隔でおもな観光地をめぐっています。バスを待つ間に福島と郡山の間に住んでいて、当地に転勤になった息子を訪ねてきたという方に話しかけられて、ずっと聞き役を務めました。その方、バスに乗り合わせた中学生の情報収集に励まれて、中学生は北海道の岩見沢から来たとわかりましたが、とても素朴で可愛い生徒さんたちでした。
 約20分で鶴ヶ城城入口に着き、事前調査でここでと決めていたバス停前のアドリアでランチ。 このお店にも修学旅行生が来ていました。


アドリア北出丸カフェマップ

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 以下はアドリアのHPのコピペです。これを読むと、行きたくなりませんか。ykさまに倣って、引用は文字の色を変えることにいたしました。

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 緑あふれる鶴ヶ城のお堀端に、漆喰壁の趣ある外観を見せて建つアドリア北出丸カフェ。

アプローチには淡いモスグリーンの御影石が敷き詰められ、それは隣接するバス停にも同様に施されています。
カフェのスタッフは、この空間全体を毎朝掃除し、観光客や地元の方々を気持ちよくお迎えする準備を欠かしません。
そして、城下町会津の景観に溶け込むように佇んでいるカフェに一歩入ると出迎えるのは、日本に二つとない大ケヤキの一枚板のモニュメント。
上質のサクラやケヤキがふんだんに使われた店内は、心癒される木の香りと優しさに満ちています。さらにドアやトイレの装飾などには、会津の漆職人の見事な手技も見られます。私たち会津土建のすべてを注ぎ込んで創り上げた、アドリア北出丸カフェ。本物が醸し出す極上の時間と空間をお届けしています。

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1000年のエネルギーを秘めたケヤキからは、凛とした空気感が漂う。店内では、「水分神社(みくまりじんじゃ)の大ケヤキ」が、皆様をお迎えしております。
この大ケヤキは推定樹齢約1000年の大木で、2008年まで天然記念物として奈良県東吉野村瀧野の水分神社の社殿裏にそびえておりました。1989年3月に天然記念物に指定された「ケヤキ」ですが2008年2月縁あって会津若松のこの場所に旅してきました。
内部まで綺麗な杢目を維持しているのは奇跡的なことで日本に二つと無い「大ケヤキ」と言われております。

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 お食事は諸事情でビーフシチュー一択でしたが、美味しくいただきました。
 お店の方に道を教えていただいて、「おにわさん」で知った白露庭に立ち寄りました。白露庭では通じなくて、裁判所と言わないとダメです。

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 鶴ヶ城の北口にあった会津藩家老・内藤介衛門の邸跡に江戸時代の遠州流庭園が残っています。この庭園は戊辰戦争の降伏式が行われた場所でした。 
 
 鶴ヶ城で目指すのは麟閣です。バス停の名前が「鶴ヶ城入口」ですから、すぐにお城かと思ったら、なかなか天守閣前の麟閣にたどり着けません。当たり前ですよね。簡単に着いたら、即落城です。

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  北口から入って、旧表門から茶室麟閣を見学、廊下橋を渡って三の丸の県立博物館に行きました。4月28日グランドオープンという天守閣はバスです。

  至徳元年(1384)に葦名直盛が築いた東黒川館を起源とし、文禄2年(1593)に蒲生氏郷が東日本で初の本格的な天守閣を建てて「鶴ヶ城」と命名しました。慶応4年(1868)の戊辰戦争では新政府軍の一か月に及ぶ猛攻に耐え、難攻不落の名城として知られるようになりました。明治7年(1874)までに天守閣をはじめとするすべての建物が取り壊されましたが、昭和40年(1965)に天守閣が再建され、平成に入り茶室や隅櫓も復元されました。平成23年(2011)には、屋根瓦が幕末当時の赤瓦にふき替えられました。

 鶴ヶ城の城主は葦名→伊達→蒲生→上杉→蒲生→加藤→保科(会津松平)と変遷します。

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 追手門付近に堅固な桝形石垣を築いたのは加藤嘉明・明成親子です。

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 蒲生氏郷時代の表門です。キリシタン大名で知られる蒲生氏郷は支城があった猪苗代にセミナリオを開いていますが、40歳で高山右近に看取られて亡くなりました。

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 この地に来た主な目的の一つの麟閣は、天守閣の賑わいとは隔絶された静寂な世界でした。

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 天正19年(1591)に千利休が秀吉に死を命じられたとき、蒲生氏郷は利休の子・少庵を会津に匿い、1年半ほど庇護しています。麟閣は少庵が建てたと言われる茶室で、武家茶道の様式を備えた珍しい建物です。明治5年(1872)の鶴ヶ城解体の際、若松市内の森川善兵衛宅の中庭に移築されますが、平成2年(1990)に本丸内の跡地に移築・復元されました。

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 寄付・外露地に構えられる建物で、茶会に先立って客が連客と待ち合せたり、身支度を整えて、席入りの準備をする場所。

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 腰掛待合・客が露地入りして亭主の迎えを待ったり、中立ちの際にいったん露地に出て、席入りの合図を待つ場所。

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鶴躙口は茶室特有の出入口で、頭を下げ、身体を縮めないと入れないのは平等の精神をあらわしているそうです。

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 蒲生氏郷は徳川家康とともに千家復興を秀吉に働きかけます。その結果、少庵は京都に帰って千家を再興し、千家茶道は宗旦に引き継がれました。宗旦の3人の子によって、表・裏・武者小路の三千家が興されて今日に至っています。出雲市に復元された独楽庵や本法寺を訪ねたときに門前を通った表千家・裏千家など、前回の旅の思い出が蘇ってきました。この美しい露地を独占できて幸せです。

 麟閣→奥御殿の庭跡→御三階跡→廊下橋→二の丸→三の丸→県立博物館というコースは、ほとんど人がおられません。

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借り物の写真です。

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 鶴ヶ城天守閣も一枚だけ。

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 本丸と二の丸をつなぐ廊下橋です。廊下橋とは屋根や壁のある橋のことですが、2018年に架け替えられたピカピカの朱塗りの橋には屋根も壁もありません。葦名氏が城主だった室町時代には屋根付きだったという説が伝えられています。

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 加藤時代の高石垣は高さ20mで、東日本では有数の高さでした。その前の蒲生時代はここに大手門があったようです。

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 県立博物館に着きました。

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 県立博物館のエントランスホールで存在感を放っているのは白水阿弥陀堂の模型です。これは撮影可で、福島県内ではいちばん美しい建物だと思っているので嬉しくなりました。下記は2015年に訪ねたときの旅日記です。
福島へ・・・白水阿弥陀堂: あれも観たい! これも聴きたい! (cocolog-nifty.com)

 博物館に来た目的は、企画展示「よみがえる会津大塚山古墳」(4月1日~9月3日 10月31日~2024年3月31日)です。東北地方で唯一の三角縁神獣鏡をはじめとする豊富な出土品が一堂に並び、発掘の経過から二つの主体部に葬られた二つの棺と副葬品について、詳しい解説があります。喜んでいるのは私だけらしくて、またも独り占め。あと3日で「GO!GO!5世紀ー東北地方中・南部の古墳文化ー」という春の企画展が拝見できたのですが、連休の混雑が恐怖で、なにもかも思い通りとはいきません。古代出雲歴史博物館で景初三年銘の三角縁神獣鏡を拝見したばかりで、これはぜひ行きたいと思いました。同范鏡の傷による年代観のことなど、多くの知見を得ましたが、考古学の講義の場ではないので自粛します。
 博物館の前に「鶴ヶ城三の丸」バス停があって、5分ほどで次の目的地の「御薬園」です。  

 1年間、温めてきたプランです。いつもあっちだこっちだと駆け回っておりますので、今回は景色以外は何もないところで寛ごうという計画です。4月以降はホテルのオプションで五色沼のツアーが数コース用意されていて、3日前までに要予約です。ぎりぎりまで天気予報をウオッチし、五色沼ビジターセンターの情報も得ていましたが、今回は断念したほうがいいと判断いたしました。とても居心地のいいホテルでしたので、次回は雪が完全に解けた時期に2泊してと身の程知らずのことを考えています。予約した人は14時にロビー集合ということでしたが、ロビーには誰もいませんでした。

4月24日(月)
東京ー郡山 10:36-11:57 やまびこ57号 
郡山ー猪苗代駅 12:15-12:52 

 猪苗代駅までは時刻通りにことが運び、車窓の景色を楽しんでいましたが、猪苗代駅は跨線橋の厳しい階段を使わなければなりません。いつもはリュックだけで旅をしているのに、今回に限って激しい気温差や降雨が予想されて荷物が増え、パソコンまで持参したので、息も絶え絶えで改札口までたどり着いたら、送迎バスの運転手さんが待っていてくださいました。13:10発の送迎バスにすでに乗っていらしたご婦人と長谷川等伯の話で盛り上がってあたりの景色も目に入らないまま30分ほどでホテルに着きました。「大人の自由な一人旅 満喫プラン」に申し込みましたが、貧乏旅行が身についているので、最初から最後まで行き届いたサービスを受けて、たまにはこういう時間を持つのを許していただこうと思いました。14時のチェックイン開始時間まではライブラリーラウンジでコーヒーをいただきながら、眼前の景色にうっとりです。この沼はホテルの私有地なんですって。

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 バスでご一緒した方は横浜の方で、2泊されるそうです。リピートすると優遇されるので度々来られているというお話でした。案内していただいたお部屋には荷物が届いていましたが、こういうサービスも久しぶりです。  

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 窓から見下ろす弥六沼と裏磐梯、なんて美しい!

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 散策開始!

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 ホテルの裏庭にある五色沼の一つ「弥六沼」は、いわばプライベートビーチのような感じです。

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 字が小さくてわかりにくいのですが、一番下の沼が「弥六沼」です。

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 雪解け水が音を立てて沼に向かって流れています。蕗のトウがあちこちに。

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 まだ解けていない雪を見つけました。

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 水芭蕉の花は夏でなくても咲くのですね。

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 そろそろホテルに戻りましょう。

 展示コーナーで「会津型展~幻の染め型紙」を独占鑑賞。

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 地域クーポンに少し足して一点だけ求めてきました。藍の色、好きです。染型紙は着物などを染めるために使う型紙で、和紙を柿渋で貼り合わせた型紙に図柄を彫り抜いて作られます。「会津型」は、かつて福島県喜多方市で製造・販売されていた染型紙で、その素朴な美しさを復活させようと「染色グループれんが」の方々が取り組まれています。

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 温泉も独占。奥に露天風呂があります。(この写真は借り物です)

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一口のお楽しみ
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真鯛・苺・彩り野菜
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カリフラワー・剣先烏賊
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鰆・桜海老(写真を撮り忘れたのでHPから借用)
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牛フィレ肉・ビーツ
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マスカルポーネ・フリュイルージュ 

 どのお皿も繊細で手の込んだ逸品でした。ドリンクはフリーですから、アルコールのお好きな方は嬉しいでしょう。健啖家はボリューム的に物足りないかもしれません。

歩数 7158歩

4月25日(火)

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 朝食は和食を選びました。このあと温かいものが何品か運ばれてきたのに、写真を撮り忘れました。ホテルのHPの写真と大差ないと思います。あら、海苔が写っていません。

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 朝日を浴びた弥六沼は木々が映っていっそう麗しく、去りがたい思いです。

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 ホテルともお別れです。送迎バスは二人連れ様が乗ってこられてほっとしました。次は一族郎党うちそろって参りましょう。

 写真は撮れませんでしたが、車窓から見た桧原湖など沿道の景色も見事です。ただ、廃墟になったホテルも散見されて、胸が痛みます。桧原湖の遊覧船は、まだ地上でお休みでした。旅行支援の割引があってもこの集客状況ですから、細部まで心の籠ったホテルの健闘を祈ります。


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 猪苗代駅から会津若松に向かいます。またしても跨線橋を上がって下りたら、下掲の張り紙が。

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 お手伝いが必要な方、ボタンを押しましょう。あとで気づいたのですが、郡山から会津若松方面に向かう場合、途中下車すると跨線橋を渡らなければなりません。大きい荷物を持っているなら、先に会津若松に行って、帰りに猪苗代に寄れば、改札は同じ平面です。会津若松駅は只見線を除いてエレベーターが設置されています。

歩数 7158歩

 帰りのタイムテーブルは、下記のとおりです。こういう場合にタクシーに頼ってはいけないという教訓を得ました。いつも女神や男神が降臨されるはずがありません。海外独り旅をしていたときは、帰国日の前夜はなにがあっても空港にたどりつける場所に泊まる、を鉄則にしていましたが、気が緩んでいました。

出雲市駅ー出雲空港 15:00-15:30
出雲空港ー羽田空港 16:15ー17:45

 驚いたことに、女神はホテルで荷物をピックアップしたあと、空港まで送ってくださるとおっしゃいます。「ホテルの玄関前から空港行きのバスが出るから、ホテルまでで十分です」と何度言っても、聞いていただけません。ホテルの前で待っていてくださって、空港に向かいながら、身の上話などを伺いました。
 市街地を離れて空港に近づくと、出雲平野独特の築地松のある家屋や菜の花畑、巨石を並べた造園業者の展示場など、普段は目にすることのない景色が広がります。伝承館で見た築地松のある家が点在している道を走っていた女神は、「まだ時間があるから出雲キルト美術館に寄りましょう。この付近で育って、友達もたくさんいるのよ」と言われました。旅のプランを立てていたときの候補の一つですが、交通の便が非常に悪くて諦めていた場所です。

 築地松に関するサイトを貼りました。「おすすめ」の項の築地松マップをクリックすると、たくさん紹介されています。やたらに木を伐る首長がいる今日、なんとかして景観を守ろうとして懸命になっていらっしゃる姿は尊いです。維持・管理がたいへんそうですが。

築地松とは|ついじまつ築地松景観保全対策推進協議会ウェブサイト (tsuijimatsu.com)

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 駐車場から見た出雲キルト美術館。

 日本で唯一の出雲キルト美術館は出雲平野の中に建っています。築200年の出雲伝統の民家を利用した美術館は、キルト作家八重垣睦子氏プロデュースによる着物を素材にした作品が展示されているだけではなくて、景観や空間を含めて日本文化や出雲の心を伝承することをコンセプトとした場所です。まず春季企画展「鳳凰ーそして祈りへ」(3月2日ー5月30日)を拝見しました。


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 作品は撮影できませんので、美術館のHPから

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「神羅万象」

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「花の輪廻」

 薄暗い部屋に飾られた薄物に光が添えられると、夢幻の世界が現れます。

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 100年から300年の時を経た着物を素材として、一針一針、細心の注意を払って制作されています。織、染め、刺繍、キルトなど西洋と東洋の手仕事を融合させた作品を展示する古民家の日本間も作品の一部ではないでしょうか。


 インテリアも洗練されていて、女神とともに溜息の連続です。

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 梁はそのまま生かしたそうです。

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 あとから付け加えたテラスでお抹茶と生菓子をいただきました。雲州平田の木綿街道記念館のガイドをしてくださった方が「出雲は茶道が盛んで、生菓子も美味しいですよ」と言われていましたが、そのとおりです。

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 満開の桜を見ながらお茶をいただく幸せ!

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 お座敷の前の庭園も出雲流です。


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 門前に広がる山と田園の美しさは例えようもありません。空港までは車で7分です。空港から来るのがいちばん近くて、その次は雲州平田かもしれません。女神に厚く感謝して別れました。いつも旅先で心優しい方々に出会いますが、出雲の旅はとりわけ忘れがたい出会いがありました。いまもその余韻に浸っています。八十路も半ばを過ぎて、独り旅ができる幸せを思えば、なんでも乗り越えられそうです。あまりにも見どころ満載な旅でしたので、次は私にしては贅沢で、少しのんびりした旅を計画しています。

歩数 11272歩 


 松籟亭は、中村昌生氏の設計で、我が国の木造建築の良さを現代に活かした数寄屋建築です。季節ごとの部屋飾りを楽しみながら伝承館オリジナルの生菓子とお抹茶をいただくことができます。「おにわさん」という有難いサイトを運営されている方が、伝承館に行ったら、せめて松籟亭と羽根屋でお金を落としましょう、と書かれていました。羽根屋さんは行列店ですが、松籟亭は貸切状態でしたから、皆さん、行きましょう!

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 お茶を点ててくださった女性と旅の話などを交わしながら楽しいひとときを過ごしました。

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 今日こそちゃんとしたランチをとお食事処に向かうと10時半ごろは誰もいなかったお店は、前に置かれた椅子に座れない人が大勢います。紙に名前と人数を書いて待つこと20分あまりで呼ばれましたが、忙しいので天ぷらなどはできないそうで、三色割子そばをいただきました。今回の旅で、これほどの賑わいは見たことがありません。

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 上の段から、山菜そば、山かけそば、たぬきおろしそばと3種類のお味が楽しめ、お蕎麦におつゆをかけて、残ったおつゆを次の段のお蕎麦にかけるというやり方でいただきます。江戸時代末期に創業した羽根屋は出雲産の玄そばを使用し、手打ちによる伝統を守っている名店です。

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 窓から出雲庭園を見ながらいただくお蕎麦は格別のお味でした。夜は篝火がともされるようです。待っている方はますます増えたので、展示室に向かいました。

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 「華麗なる日本画コレクション 新見美術館名品展」の出雲文化伝承館での展示は「鉄斎と歴史に名を刻む巨匠」がテーマです。新見美術館は日本における最後の文人画家と称される富岡鉄斎の研究家でもあった新見出身の横内正弘氏から寄贈された約350点の美術品をもとに、平成2年に開館しました。新見は中世に東寺が領有する新見庄として栄え、中世荘園史では必ず出てくる地名です。2018年に特急やくもで倉敷から安来まで向かったとき、新見を通って、備中高梁の吹屋地区などとあわせて訪ねたいと思いましたが、実現しそうにありません。
 ほとんど貸切状態で静かな時間と空間を満喫しました。鉄斎の作品をこんなにまとめて鑑賞できたのは初めてです。鉄斎の作品を展示した部屋に一点だけ谷文晁の作品がありました。昨年訪ねた浜松近郊の本興寺で文晁の襖絵を拝見しましたが、この展示は「大崎園真景」を描いたご縁というのは考えすぎでしょうか。

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ここだけは撮影不可でしたので、伝承館のHPの写真をお借りしました。2室あって、こちらは富岡鉄斎の作品が展示されている部屋です。新見美術館が所蔵する70点あまりの鉄斎の作品から15点が出展されています。座り心地のよい椅子が置いてあって、ゆっくり拝見できました。鉄斎は日本や中国の古典や文学、儒教などを学び、その余技に書画をたしなみました。絵葉書を求めた緑青で彩色された山水画は70代半ばの作品です。

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 富岡鉄斎「擇水煮茶図」明治44年(1911)絵葉書

 第二展示室には、竹内栖鳳、横山大観、小林古径、堂本印象、橋本関雪など、近現代の画家の日本画が展示され、新見美術館の力量を知りました。

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 川合玉堂「梅咲くわたし場」昭和26年(1951)ごろ 絵葉書

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横山大観「帰漁」明治34年(1901)

 この絵、好きでしたが、絵葉書を売っていなかったので、新見美術館のHPから。新見美術館には、平成の作品も所蔵されています。


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村居正之「真如堂秋色」平成16年(2004)

 この時点で13時35分です。15時にホテルの前から発車する空港バスに乗るため、14時になったらタクシー会社に電話をかければいいわ、と気楽に考えて、伝承館の周りをのんびり散策しました。


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 外側から築地松を眺めたり・・・

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 明治4年ごろのポストと同型の郵便ポストを眺めたり・・・。

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 名水百選に選ばれた「浜山湧水群」の説明文を読んだり・・・。

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 郷土色豊かな水汲み場の写真を撮ったり・・・

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 もうそろそろと長屋門の壁に貼ってあるタクシー会社に電話をかけると「出払っています」。次の会社もその次の会社も「以下同文」です。うわーっ、飛行機に乗り遅れると焦っていたら、女神が降臨されて「お送りしますよ」と声をかけてくださいました。



 伝承館では、出雲屋敷の庭園、絵図をもとに復元した不昧公ゆかりの独楽庵庭園、京都の有力作庭家が手がけた松籟亭庭園と三つの異なる庭園が見られます。


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 いちばん見たかった独楽庵庭園も独占できました。独楽庵は利休が長柄の橋杭3本を秀吉の許しを得て譲り受け、それを柱に活用して宇治田原に建てた茶室だと伝わります。松江歴史館内に復元された茶室(松江藩家老・大橋家→八雲本陣)は伝利休でしたが、こちらは確実なようです。京都の尾形光琳から大坂の阿波屋に移されたのち、文化年間(1804~1814)に松平不昧が江戸・大崎の約2万坪の下屋敷に移築して大切に護りました。
 大崎屋敷は地形を生かした庭園と趣向を凝らした11もの茶室が建つ一大茶苑となりますが、不昧が文政2年〈1818)に68歳で亡くなったのち、大崎屋敷の約1万4000坪はペリー来航後の諸大名による海岸警護の一環として嘉永6年〈1854)に鳥取藩池田家の所有となり、多くの茶室は取り払われました。深川の下屋敷に移された独楽庵は、翌年の安政大地震による津波で流されてしまいました。
 独楽庵だけなら武藤三治氏によって大正10年〈1921)に北鎌倉で復元されていますが、芝白金に移り、さらに八王子の料亭「美ささ苑」に移されています。お食事に行けば拝見できると聞いて、行こうかと思っていたら、2019年に料亭は閉店していました。
 伝承館における復元は茶室の建物自体の復元ではなくて、独楽庵を含む露地構成全体を再現しようという試みです。そのさい、大きな手掛かりになったのは「松平不昧侯大崎邸独楽菴図」で、図面は国会図書館のデジタルコレクションで見ることができますが、燈篭の位置まで詳細に記されています。それ以外にも谷文晁の「大崎園真景図」や阿波屋当時の平面図などによって復元された独楽庵は伝承館の施設の中でも最も見るべき価値があると思いました。


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 露地は外露地・中露地・内露地と三部構成で、それぞれの露地を門や中潜りで関所のように仕切った造りとなっているので「三関三露」と呼ばれています。恥ずかしながら、知らない言葉が多いので、調べた結果を※を付けて書き添えました。 

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 「前庭」と呼ばれる、とりつきの坪庭から「独楽庵」の額を眺めて「外露地」に入ります。

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 「外露地」と中門の間は一面に河砂利を敷き詰め、中央を飛石と延段が真っすぐに延びています。「下腹雪隠」と手水鉢、龍安寺型燈篭1基、反対側に三畳の「袴付」があります。

 ※袴付・・待合 下腹雪隠・・外露地に設けられる便所

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 不昧公好みの透かし入りの開き戸から「中露地」に入ります。「外露地」は細長い形であるのに対して、「中露地」は南北に長い形状です。

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 「腰掛待合」の軒高が165㎝なのは、謙虚な気持ちにさせる工夫だそうです。「砂雪隠」「中潜り」密庵型燈篭1基が配されています。一面に敷き詰められた白い川砂とクロマツの緑、しみじみ美しいと思いました。

 ※砂雪隠・・内露地に設ける便所。現在は実用とはしない 中潜り・・外露地と中露地の境に設ける門で、古田織部が創始したとされている


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 「内露地」は、苔と樹木の植栽で自然の景観を表現し、侘びた風情の茶室が建っています。桃山風の高塀で囲まれ、「腰掛待合」「雪隠」が設けられ、蹲居と延寿型・春日大社御間型・高桐院型などさまざまなタイプの6基の燈篭が配されています。中島を持った空堀は山水を断つためと考えられています。「内露地」を自由に歩き回れる機会はなかなかないので、大喜びでうろうろしました。
 
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 右側に腰掛待合

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 空堀と蹲居

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 桃山風の高塀

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 茶室については(ついても)、全く知識がないので、解説の丸写しで申し訳ありません。 


 内露地の中心に再現された独楽庵は、三つの茶室が合体した複合型の茶室で、独楽庵という名前自体はその内の一つの茶室を指し示すもの。元々は独立して存在していたが、不昧公の元に来た時には既にこの姿だったらしい。茅葺宝形造りの独楽庵を中心に、隣に柿葺切妻屋根の苔香庵と、背面にやはり柿葺切妻屋根の船越席が付く構成。中島を通る飛石の苑路は直接独楽庵へ通じ、待合の前を通る苑路は船越席の前に通じており、この船越席と独楽庵との境は妙心寺垣が塞いでいる。



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 苔香庵泰叟席)は、4帖、裏千家六世泰叟好みで、入口は4枚障子の貴人口。

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 利休席(一帖台目向板)は千利休(1522ー1591)が宇治田原に建てた桃山時代の茶室。

 台目・・茶道の畳で、通常の畳の四分の三の大きさ 向板・・炉の向こう側に入れる板。長さは畳の幅と同じ,板幅は45センチメートルほど

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 船越席3帖(2帖台目)、大名茶人・船越伊予守(1597ー1670)が建てた古田織部の流れを汲んだ江戸時代初期の茶室。

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 「内露地」は一方通行ではありませんが、順路に従うと、お蕎麦屋さんの裏手に出ます。蕎麦を茹でる匂いが漂っていました。

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 誰も来られない露地を歩き、開け放たれた茶室を見せていただいて、いろいろ学びました。これだけのものを復元し、無料で開放されている出雲市に感謝します。
 
 






3月30日(木)

 最終日は宍道の八雲本陣と出雲市の出雲文化伝承館を訪ねる予定です。宍道までは2日目と同じ時刻発の列車ですから、もう慣れました。本数が非常に少なくて、この列車しかないので、開館の10時までの1時間は宍道の街歩きをしようと思っていました。

 出雲市ー宍道 8:39-8:58米子行き 

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 駅前の道を直進、最初の交差点を左折、徒歩3分、まず場所を確認して、と思ったら・・・。

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 格子に休館中の張り紙!

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 八雲本陣(木幡家住宅)は、なんと2030年まで休館です。上掲の地図を作った松江観光協会宍道支部のHPにもそういう情報はありませんでした。

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 御成門は健在でした。

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 ご不幸の次は絶賛工事中! 出雲流庭園はクロマツだけが残り、平らになったところには築山などがあったそうです。

 八雲本陣(木幡家住宅)は、旧山陰道に面していたため歴代の松江藩主が領内を巡視するさい、たびたび泊まった本陣宿で、出雲大社のところで触れた西園寺総督一行も着陣しています。2006年まで旅館を営んでいましたが、現在は公開されているはずでした。
 意気消沈、街歩きをする気もなくなって9時17分発の列車でJR出雲市駅に戻り、タクシーで出雲文化伝承館に向かいました。ここもタクシー以外は電車もバスも徒歩20分です。15分ほど走って出雲市斐川町の出雲文化伝承館に到着したのは10時14分でした。
 ykさまのブログ「緑の風」に正確な時刻が細かく記されていて、あとから行く者は所要時間など参考にさせていただいていました。こんなにきちんと記録されるのはたいへんでしょう、と思っていたら、やっと気づいたのはスマホの写真の記録です。さっそく真似をさせていただいています。

 出雲文化伝承館は、平成3年(1991)に出雲市が市政50周年を記念して開館した 出雲文化のテーマパークのような施設で、広い敷地の中に移築された建物や庭園が点在しています。

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 企画展示室以外は入場無料、撮影可です。

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 ここでタクシーを降ります。

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 銀座八丁目付近は江戸時代に銀座の町を造成した大名の一人に当時の松江藩主・堀尾忠氏がいたことから「出雲町」と呼ばれ、街路は「出雲通り」と名付けられていましたが、そのご縁で平成4年に出雲市が出雲椿(ヤブツバキ)を贈り、銀座から柳が贈られました。「銀座の柳」として大切に育てられています。

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 江戸時代の武家屋敷の長屋門を移築しました。天井は一枚板です。

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 長屋門を入って左側の中門は関係者以外立ち入り禁止で、出雲流庭園は出雲屋敷から拝見します。出雲屋敷と出雲流庭園は、出雲市斐川町坂田にあった江角家の家屋敷を移築したもので、江角家は新田開発で富を築いた豪農でした。

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 この図で明らかなように、屋敷に比べて庭園が非常に広いのに驚きます。

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 最初に明治29年に建てられた出雲屋敷(旧江角邸)に入りました。江角家の母屋を移築したもので、南に面する大戸口から屋敷に入ると、広い土間と太い梁が見られます。

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 建物の南側は、三の間、二の間、書院が続く三間造りで、書院から出雲流庭園が見渡せます。

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 こちらは居間です。


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 典型的な出雲様式の平造り枯山水の回遊式庭園を正面から見た景色です。北西に出雲地方独特の築地松をめぐらせ、大きな飛石や短冊石を配しています。右側に見える建物はお蕎麦屋さんです。この庭園は明治20年代に築かれ、昭和初期に西側が拡張されて、約430坪あります。

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 西側部分です。この庭園もすれ違う場所に大きな石が据えられています。

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 ヤブツバキは散ってしまいましたが、枝垂れ桜は満開です。

 長くなりすぎましたので、ここで切ります。

 
 見た目はかなりご高齢の運転手さんが15分ほどで門前に連れていってくださいました。上のほうにも着けられますよと親切なお言葉をいただきましたが、門前で下りて石段を登りました。

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 康國寺と彫った大きな石が立っています。出雲の方は大きな石がお好きなようです。

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 出雲産の「さざれ石」が置かれていました。出雲大社などあちこちで見かけますが、溶解した石灰石が多くの小石を集結してしだいに大きく成長したものです。

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目の前の階段を登ると砂紋が美しい簡素な枯山水のお庭があって、本堂の旧鬼瓦が置いてありました。ここからさらに石段を登ると本堂や庭園のある境内です。

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 臨済宗妙心寺派の康国寺は正平24年(1369)に弧峰覚明禅師を開山とし、この地方の豪族だった康国公の寄進で建立されたといただいたパンフレットに書いてありました。豪族の康国公って? 調べてみると、三沢康国です。三沢氏は木曽義仲と巴御前の子孫だという説もありますが、信濃国伊奈郡飯嶋郷が出自だという説もあって、真偽のほどはわかりません。承久の乱で戦功を挙げ、この地の地頭に任じられました。嘉元3年(1305)に居城を築いた奥出雲仁多三沢は、昨日、訪ねた可部屋集成館の近くです。敷地内の観音淵の説明に、三沢氏が上流の猿政山周辺に武運長久を祈って12坊を建てた、延宝2年(1674)の洪水で寺跡が崩れ、数日後、この淵で村人が観音像を拾ったと書いてありました。ただし、三沢氏系図に康国の名が出てこないので、祖とされる三沢為仲の直系ではないのかもしれません。
 その後、康国寺は変遷を重ねますが、天明年間(1781~1788)に中興の開山・拙庵禅師によって寺域が拡大されます。拙庵禅師は山内に茶席「博淵亭」を建てるなど茶に対する造詣が深く、計画した庭園は、のちに韜光禅師によって現在の形に整えられました。 
 

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  砂紋は「うねり」でしょうか?
 
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 ここまでは上々だったのですが、庫裡の前に立札が! 


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そんなーっ! 「またのお越しをお待ちしています」と言われても無理です! 心密かに出雲流庭園の中でもこのお庭にいちばん期待していました。移転された庭園ではなくて、もともと作られた場所にあって、構成が過剰でなく気品が高いと思っていました。私にとっては大ハプニングです。
 呆然と佇んでいると、若いお坊様が気の毒そうに「突然不幸がありまして、庭園前の書院にご遺体を安置しているので、庭園の拝観はできません」。すっかり気落ちして、しょんぼりしていると、数分後いらして「それでは本堂でお休みください」。お言葉に甘えて、本堂のご本尊にお参りしました。しばらくしてまたお坊様が来られて「廊下の隅でよければ、少しの間、ご覧ください」。神も仏もおられました。パンフレットもいただいたのに、拝観料は受け取ってくださいません。


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 下のパンフレットの写真では障子が外されていますが、今日は、しっかりと閉じられています。

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 礼を失しないように、縁側の隅からご冥福を祈りながら、しばらく拝観させていただきました。まだ訃報は外部に伝わっていないのか、静まり返っています。

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 お借りした写真で申し訳ありません。奥に見える木の扉を開けてくださって、その前から拝見しました。
 松江藩7代藩主松平治郷(不昧)お抱えの庭師・沢玄丹によって天保元年〈1830)から3年半の歳月をかけて築かれた書院北側の庭園は、禅宗寺院特有の枯山水と背後の旅伏山と錦鏡池を借景に取り入れた美しい庭園です。茶庭の影響を強く受け、飛石を主景としています。

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 白砂の平庭に三筋の飛石が連なります。
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 錦鏡池と後ろの旅伏山を借景とした256坪の庭園をずっと見ていたかったのですが、特別のご厚意に甘えるわけにはいきません。後ろ髪を引かれる思いで、帰途につきました。

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 同じような写真ばかりですが、お取り込み中にもかかわらず見せてくださったご厚意に感謝しつつ、急いで写した写真は下手でも貴重です。池の深みを帯びた青色、木々の緑のグラデーション、大小の石を組み合わせた飛石、雪が解けて生気を取り戻しつつある杉苔、留砂、一基だけの端正な燈篭、いつまでも心を清々しくさせてくださる風景でした。康国寺さま、ありがとうございました。
 タクシーの会社に電話をかけていると、通りがかった方が「駅まで乗せてあげますよ」とおっしゃってくださいましたが、丁重にご辞退しました。出雲の方は親切です。
 15年ほど前のお話ですが、バルセロナから何時間もバスに乗って、レスタニーのサンタ・マリア教会を訪ねたときのことを思い出しました。教会に着くと、大勢の方が来られています。美しいロマネスクの回廊で名高い教会ですから、回廊を拝見したいと言うと「これからお葬式だから無理」。そのときも落胆ぶりに同情してくださったのか、「10分だけね」と回廊に行ける扉の鍵を開けていただきました。


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 タクシーを待っている間に気づいたのが、この記念碑です。「太平洋戦争に依る学童集団疎開地」と刻まれているのを見て、胸を衝かれました。私も国民学校に入学して小学校を卒業した世代です。大阪でも郊外でしたから学童疎開の対象にはなりませんでしたが、明治小学校のある地域は激しい空襲を受けています。あんな辛い時代が二度ときませんように、学童疎開などが行われませんように、改めて祈らずにはいられません。
 帰りのタクシーは上まで上がっていただくようお願いしたら、迎えに来てくださったのは先ほどと同じ運転手さんです。行きの車中で「康国寺さんのお庭はいいですよ」と話されていたので「本当はもっと長居をしたかったのに、ご不幸があって」と言うと、驚いていらっしゃいました。
 雲州平田駅に着くと、電鉄出雲市行きの電車が発車寸前。駅員さんに「往復切符を買ったのに、しまい込んで」と焦って告げると、「信用します」と改札を通してくださいました。
 そういうわけで、予定よりはるかに早く出雲市に戻って、遅い昼食をいただいたり、旅行支援のクーポンでお土産を買ったりしたら、全エネルギーを消耗してしまいました。夜は評判のいいイタリアンのお店に行こうと思っていましたが、部屋に入ると、もう歩けません。やはり予約すべきでした。

 歩数 17957歩

 新宇賀橋付近から山道をたどればすぐだというお話でしたが、山道がわかりません。とりあえず車がときどき通る道を歩いて、この道でいいか尋ねようと思いましたが、誰も歩いていません。困り果てていたら、とある事業所のガレージに一台の車が入って男性が下りてこられました。小走りで近づいて「平田本陣記念館はこの先ですか」と声をかけると「送りますよ」。地獄で仏です。しかも帰りに困らないようにと、木綿街道記念館の方が教えてくださった山道の入り口まで行って、そこから戻って自動車の道を通って記念館まで送ってくださいました。ご自分が先に下りて、開館しているかどうか確認してから下してくださる念の入れ方に有難さが募ります。
 前項の地図を再掲しましたが、帰りは左下の平田本陣記念館入口まで歩いて、平田生活バスで駅前まで戻り、別の路線で康国寺最寄りの徳雲寺橋バス停に行く予定でした。結論的には「足腰に難あり」はタクシー一択です。ただ、タクシーで行ってしまうと、現地の方との触れ合いや、異郷の地のさりげない風景を足で確かめる悦びがありません。

 バスを使うなら当初のプランの北本町ー平田本陣記念館入口11:45-11:48(平田生活バス北浜線)のほうが歩く距離は短かったような気がします。


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 平田本陣記念館は雲州平田駅前(現・平田本町)に享保20年(1735)に建てられた本木佐家の屋敷を移築・復元して1989年に開館した施設です。木綿販売や酒造業で財をなした本木佐家は、山陰屈指の名家として、この地方一帯の文化的な発展にも貢献しています。本木佐家の屋敷は、鷹狩りや出雲大社参拝のさい、松江藩主が宿泊する本陣としての機能を持っていました。本陣に指定されることは非常に名誉なことで、苗字帯刀や門を構えられるなど大きな特権が認められています。

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右側は「御成門」です。

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 記念館入口

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 通用口

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 この屋敷も長大で全体をカメラに収めることがかなり難しい。青空に白壁の建物が映えています。

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 茶室は非公開でしたので、門だけ写してきました。

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 受付の方に、タクシーを呼んでいただけるか、康国寺は開門しているかの2点を確認して、広い館内をゆっくり回りました。ここも完全貸し切りです。ホールで「平田一色飾り」がお出迎え。スサノオのオロチ退治の場面ですが、甕、火鉢、皿、湯たんぽなどが針金で留められています。

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 こんな「おへっつい」、解体された実家にもありました。火吹竹を吹かされた記憶も残っています。火消壺なんて、死語ですよね。

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 「上の間」と「次の間」が復元されています。「上の間」は松江藩主が訪れたさいの御寝所でした。享保20年(1735)当時のまま移築され、天袋の襖に描かれた土佐光秀作の雷鳥も蘇っています。

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 「上の間」から杉苔の美しい中庭が見えます。

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 完全復元された出雲流庭園の本庭は庭園鑑賞ホールから拝見します。ソファーもありますし、ゆっくり鑑賞できるよう、高さの違う椅子が置かれているのは、有難い配慮です。「ここから先はご遠慮ください」という立札があって、庭は歩けませんが、ガラス戸を開けて一段下りて撮影することは可能です。
 一般的に日本庭園は「池泉庭園」「枯山水庭園」「露地庭園」の3つに分けられますが、平田本陣記念館の庭園は、水を使わず岩や砂などで風景を表現した枯山水と樹木や苔、石燈篭などで構成された露地の要素を組み合わせた出雲地方独特の様式です。松江藩7代藩主で茶人としても名高い松平治郷(不昧)に仕えた庭師・沢玄丹が考案したので、玄丹流とも呼ばれています。

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 本木佐家から完全移築した出雲流庭園です。大き目の飛石は雪の多い地域のため、少し高めです。長方形の短冊石を配し、右側には立燈篭というのが出雲流庭園の特徴です。

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 地表には留砂という奥出雲地方でとれる荒い砂を敷き詰めています。デザイン性と実用性を兼ね備えて、飛石が交差する場所は、すれ違う人が歩きやすいように、より大きな石が置かれているのも出雲流庭園の特徴です。

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 左側からも三つ目の飛石までは下りられます。

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展示館前の休憩室も体に優しい椅子が置いてありました。3月18日から5月7日まで「新見美術館展」が出雲文化伝承館と同時開催されていて、こちらでは「美人画の世界と現代の日本画」をテーマに上村松園や奥田元宋などの作品35点を拝見しました。求めた絵葉書から2点をUPしておきます。

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 展示室の写真は平田本陣記念館がTwitterに載せられたものです。 

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 平山郁夫「薬師寺の夕」平成13年(2001)

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 山口華楊「晨雪」昭和47年(1972)

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 展示館前のガラス張りの通路から見えるのはユニークな庭園です。

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タクシーを待つ間、記念館の周りをそぞろ歩き。眼下の池の周りに咲く桜を眺めて、ああ、来てよかったと思わされる時間でした。ただし、お食事処はありません。ベンチはありますから、ピクニックランチを用意しましょう。

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3月29日(水)

 3日目は一畑電鉄で24分の雲州平田を訪ねます。泊まったホテルの北側出入口からJRの駅まで1分、南側出入口から一畑電鉄出雲市駅まで1分です。平日8時台だから込むでしょう、早めに行こうと思ったら、発車10分前まで改札が始まりません。ストーブのある待合室で待っているのは数人でした。この駅はエレベーターがあって助かります。

電鉄出雲市ー雲州平田 8:03-8:27 

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ラッピング電車が来ましたが、乗客は10人前後。これから部活だという感じの高校生は自転車を持ち込んでいました。雲州平田駅から木綿街道まで800m、徒歩10分ということですが、タクシーは近すぎて気の毒だし、 体力温存を図って、平田生活バスに乗りました。塩津線の袋町(下の地図の平田大橋付近)で下車すると、すぐに木綿街道です。

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 宍道湖と日本海に挟まれ、自然に恵まれた雲州平田は、かつて木綿の栽培が盛んなところとして有名でした。1700年代の初頭から綿作が始まり、後期になると他国にも販売するようになります。藩が品質管理を徹底させたので、三井が買方を派遣するなど、上方でも雲州木綿は高く評価されました
 明治になると、紡績工場ができ、工業都市として発展しただけではなくて、商人の町としても賑わいます。宍道湖につながる運河「平田船川」には多数の帆船が往来し、昭和26年ごろまでは松江との定期船便もありました。
 木綿街道には間口が狭く奥に長い「切妻妻入塗家造」の家屋や白壁の土蔵が並び、酒屋、醤油屋、和菓子屋が伝統の味を伝えています。歩いていると、家の前の道を掃除している方が親しげに挨拶をしてくださいました。

 最初に出会ったのは來間屋生姜糖本舗です。

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 來間屋生姜糖本舗でレトロな生姜糖を求めました。お土産に配った残りをいまいただいています。以下はお店のHPのコピペです。

來間屋文左衛門(くるまやぶんざえもん)は寛文十―年に平田の片原町に生まれ、夙に詩文に長じまた書を能くしたので壮年の頃松江藩の奉行所に勤務して帯刀さへ許されたが、晩年に至り離職して郷里に帰り専ら茶華の道に心を寄せた。

当時平田の製菓業は甚だ幼稚で、偶々駄菓子を作るものはあってもいわゆる祖悪であり永く貯蔵することもできなかったので、彼は深くこれを遺憾とし、風流珍味の菓子を製作して大いに一般の嗜好に投じようと決意した。

そこで種々考案の結果砂糖に生姜を混じて練り固めれば辛甘相和して高尚かつ耐久力のある菓子ができると考えつき、試作するが、再三失敗して大いに損失を招いた。併し彼はこれに屈することなく更に十数回の実験と失敗を重ねた末に生姜は出西産に優るものはないことを知り、正徳五年遂に初志を貫徹した。以来製法を秘して一子相伝としたが当時は産額が甚だ少なかった。然るに文化年間に至り下郡の手を経て時の徳川将軍家齊及び藩主に献上したところ、大いに賞賛されたのでようや世間の人に認められるようになった。 

 出雲市平田町にある「木綿街道」は、雲州木綿の産地として、全国に名を馳せました。宍道湖につながる平田船川を帆船が往来し、「小路(建物の脇を通り奥の蔵や民家に入るための路地)」や「かけだし(荷揚場)」などが賑わったそうですが、いまはひっそりと静まっています。地域の方々は棉の花や草鞋を飾り、大きな甕を置いて、迎えてくださいました。

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 川に面した家は「かけだし」という階段が付いていました。
 
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 本石橋家の分家の旧石橋酒造(推定築220年)は宿泊施設「NIPPONIA 雲州平田 木綿街道」になっていました。素敵なお宿ですが、いいお値段。出雲大社の門前にも系列のホテルがあります。この地方では本家は苗字に本を付けるので、石橋家の本家は本石橋家です。
 追記 4月7日にテレビを横目で見ながらブログを書いていたら、なんと外国から観光に来られる方のお勧め3か所に出雲が入っていて、このホテルも詳しく紹介されていました。いいときに行ったな、というのが実感です。秋は京都のホテルの料金は2倍になると言っていたから焦ります。

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 持田醤油醸造工場です。醬油屋さんが多い地域です。

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 酒持田本店は明治10年創業の老舗です。2階右側の格子は長い2本と短い2本が組み合わさった出雲格子の典型で、親子格子とも呼ばれています。出雲格子の前の竹は新酒を絞ると、青々としたものと取り替えます。杉玉は知っていましたが、竹は初めてです。

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 岡屋小路は木綿問屋の岡屋脇の小路です。

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 この種の街並み保存は、どことなく造り物めいた感じがする場合が多いのですが、木綿街道は、しっくりとした雰囲気が漂っていて、好感が持てました。

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 木綿街道交流館で本石橋邸の見学を申し込むシステムです。隣接するごはん屋「棉の花」でランチをと思っていたのですが、今日は団体の申し込みがあって、お店は休みだそうです。またしても嫌な予感がします。皆さん、出雲三成や雲州平田に行くときはお弁当を持っていきましょう! 
 木綿街道交流館の建物は、江戸時代から昭和初期まで外科を開業していた名門医家・長崎家の屋敷を復元したものです。江戸時代に「外科御免屋敷」と称されたのは、地銭が免除されていたからですが、藩が免除したのではなくて、地域の人々が出し合って、代わりに納めていたようです。それだけ地域住民にとって大切な存在だったのですね。
  出雲市は建物を取り壊して軽量鉄骨の交流館を建てる計画だったのを、復元を熱望する方々の熱意が実って、いまの建物になったと知って、本当によかったと思います。 

 交流館の男性に大歓迎していただいて、熱のこもったガイド付きの本石橋邸の独占見学開始です。

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 間口がこれだけありますから、邸全体は、とても写真に入りません。

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 土間に置かれた異色の存在が「平田一色飾り」です。身近な生活用具(陶器、漆器、金物、茶器、仏具、自転車部品等)で、神話や歴史上の人物、おとぎ話やテレビ等で話題になったものを独特な技術で飾り競いあう平田地域の民俗芸術です。
 決まりごとが二つあります。一つは、陶器なら陶器だけ、漆器なら漆器だけと、必ず一種類のもので飾らなければなりません。拝見したものは2例とも陶器でした。もう一つは、材料に穴を開けたり、色を塗ったり、変形させたりしないで、解体すると、元通り使用できないといけないという決まりです。
 宝暦2年(1752)に悪疫が流行したさい、天神の御神幸の祭典で退散したという伝えがありましたが、寛政5年(1793)に表具屋の桔梗屋十兵衛が悪疫の有無にかかわらず天神の御神幸の祭典は恒例になるようにと考え、茶道具一式で「大黒天」を造ったのが一式飾りの起源だそうですから、230年も続いています。
 本石橋家の土間に置かれていたのは「大黒天」の陶器の一式飾りで、すべて針金で固定されています。

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 ガイドさんが長押の上に槍が置いてあるのは家格の高さをあらわしていると言われていました。

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 ずらっと並んだ「石」と書いた箱には提灯が入っています。

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 当主の書斎に木箱に入った『古事記伝』があったので質問したら、「よくぞ気づいてくださった」と上機嫌です。江戸時代末期から明治にかけて活躍した石橋孫八氏は、自身も学者でしたが、日本を代表する漢学者・国学者を招いて学問振興に努め、自宅を開放して簸州学舎という学校を開いて子弟教育に力を入れた方で、『古事記伝』も京都で求められたそうです。

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 三畳中板の明るい茶室は煎茶席です。不昧公のお軸が掛けてありました。

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 当主が石が好きだったため、他の庭園より石を多用しています。ご子孫の個人所有のため、維持・管理はご苦労が多そうでした。

 このあと平田生活バスで移動するつもりでしたが、ガイドさんが近道を教えるから歩いていけとおっしゃるので、仰せに従いました。

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 木綿街道交流館を背にして左に進むと、広い道に出る、交差点を渡って平田船川に沿って、二つ目のお寺の近くの墓地の横を山に向かっていけば15分だということでした。地図を再掲します。新愛宕橋を渡って川ぞいに上流に向かって歩きますが、タクシーを呼んだほうが無難です。

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 平田船川の前に一つ目のお寺が建っていました。下の地図の極楽寺です。

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 境内の枝垂れ桜を眺めて一休み。

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 南北朝時代に創建された大林寺の山門です。かつては七堂伽藍が並び、南北872m、東西712mの寺域を持っていたそうですが、山門の奥の木立で往時を偲ぶしかありません。この先の墓地の角を曲がれば一本道と教わったのですが、墓地が数か所あって、迷子になってしまいました。

 午後は可部屋集成館と櫻井家住宅・庭園を訪ねる予定ですが、本数の少ないバスを乗り継がなければなりません。

絲原記念館ー奥出雲病院 13:27-13:35
奥出雲病院ー内谷 13:45ー14:10

たたらの文化遺産 可部屋集成館 (kabeya-syuseikan.com)

  絲原記念館と可部屋集成館は出雲三成駅からは完全に方向が違うと書きましたが、ローカルバスで駅前まで戻ると乗り換え時間が4分しかありません。何かあると危険だと心配していたら、どちらのバスも駅から3分の奥出雲病院を通ることがわかって、それなら10分あるから楽勝だと胸をなでおろしました。

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 13時27分発のバスを待っていたら、年配の男性が話しかけてこられました。「どこまで行かれますか」「奥出雲病院でバスを乗り換えて可部屋集成館まで行こうと思っています」「うーん、バスが遅れてくると危ないから、奥出雲病院まで送りましょう」。というわけで、乗せていただきました。しばらくして「今日は応援演説をしてきたんですよ」「えっ、どなたの?」「知事さんですよ」「あら、丸山さんですか」。地方選挙が始まっていました。
 病院前のバス停でおろしていただきましたが、おかげでドキドキしないで済みました。それにしても、立派な病院です。
 奥出雲交通バスは慣れない者は乗り損なうほど、バスのイメージはありません。やってきたのは10人ぐらいは乗れそうなピカピカのハイエース。行先表示も知ってる人しかわからないほど控えめ。乗客は私も含めて2人です。田園風景を楽しみながら25分ほど走って、終点の内谷で下りました。HP記載の「バス停から徒歩5分」は無理で10分以上かかります。しかもこのあたりも店はおろか自販機もありません。駐車場のお蕎麦屋さんも休業中ですが、渓流、桜、菜の花、美しい山里です。

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 坂道の途中で見下ろすと、内尾谷川が流れ、東屋もあります。

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 かなりな坂道です。右上の屋根が休業中の蕎麦屋「清聴庵」。(4月から土日祝のみ営業するそうです)

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 内尾谷川に沿って、集成館、母屋、庭園、客殿などが並んでいます。

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 集成館に到着! こちらも博物館部分と住居・庭園が分かれています。冬眠から覚めて、3月18日に再開したばかりです。

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 可部屋集成館は、櫻井家が伝えてきた美術工芸品、歴史資料を展示する歴史資料館です。櫻井家は戦国武将塙団右衛門の末裔で、団右衛門が大坂夏の陣で討死したのち、嫡男の直胤は母方の姓「櫻井」を名乗り広島の福島正則に仕えました。福島家が改易になったときから広島の郊外「可部郷」に住み、のちに庄原市に移って“野だたら”を始めたのが鉱山業の始まりです。正保元年(1644)3代直重が現在地に移り「可部屋」の屋号を名乗って”菊一印”の銘鉄をつくりだしました。5代利吉以来「鉄師頭取」を務めただけではなくて「御鉄砲地鉄銑鍛方」を任じられて、鉄砲地鉄を鍛えていました。吉田の田部家や先ほど訪ねた絲原家とともに「鉄師御三家」と呼ばれました。
 可部屋集成館の令和5年の年間展示テーマは「奥出雲”鉄師・可部屋”の風景」で、3月18日から6月中旬までは春季展「花鳥風月~新緑に愉しむ」が開催されています。

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 正面は堀江友聲(1802ー1873)「孔雀雌雄図」など3幅です。初めて知る画家ですが、出雲国大東(現・雲南市大東)に生まれ、京都に出て海北家の養子になったり、宮津で活躍したのち、出雲国広瀬藩の御用絵師となったりした島根では熱烈に愛された絵師だそうです。

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 右側には明治11年と12年に櫻井家に逗留した田能村直入(1792ー1864)が櫻井家本宅のある内谷の四季を描いた詩と絵を収めた二巻の詩画帳から「紅緑深慮」と「風月無盡」が並んでいました。日本最後期の文人画家と呼ばれた田能村直入は田能村竹田の養子で、この方の作品は見たことがあります。

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 左側には横山清暉筆の屏風と染付の大鉢などがあわせて展示されています。横山清暉(1792ー1864)は京都出身で、江戸時代末期に四条派の絵師として活躍しました。

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 当主夫人の晴れ着やお弁当箱など、豪華です。

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 出雲国造の書もありました。

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 こういう秤、解体された実家にもありました。

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 外に出て、櫻井家住宅と庭園を見せていただきました。

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 櫻井家住宅は奥出雲を代表する近世・近代の民家住宅です。享保20年(1735)の南土蔵の初普請以来、鉄師の住宅として現存する貴重な文化財で、平成15年(1997)に文化3年(1738)建てられた母屋はじめ9棟が重要文化財に指定されました。

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 享和3年(1803)に松江藩主松平治郷(不昧)を迎えるために「お成り座敷(一の間」)、庭園、御成門が増築されました。その後、歴代の藩主が6回にわたって来駕されています。

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 絲原家と同じく土間から拝見します。

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 駕籠と人力車が並んでいます。

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 短冊石と多様な石材で作られた通路。

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 下手な写真しか撮れず残念ですが、不昧公が「岩浪」と命名した自然の岩盤を利用した滝が池に落ちています。

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 書院の左側には茶席「元湯殿」があって、藩主にお茶をたてました。橋は木製です。

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 池の水面に突き出た草庵は田能村直入の意匠によるもので、「掬掃亭」と名付けられた煎茶席です。池の右側に立燈篭とクロマツを配しています。

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 草庵の近くから母屋を写しました。

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 「飛石組」があるのが出雲流庭園の特徴です。ひときわ大きな石は駕籠が置かれた「お籠石」です。

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 「御成門」を庭園の中と外から写しました。

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 敷地の奥に進むと「内谷鍛冶屋山内」と書いた立札が立っていました。この場所に作業場があったようです。

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 さらに歩みを進めると、内尾谷川の「扇淵」に出会います。

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 少し戻って、この門から入ると客殿と庭園があります。田能村直入が逗留して画作にふけった場所です。

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 観音さまが流れ着いたという伝説のある「観音淵」は庭園の外れから望めます。

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 静かに時が流れます。ここも2時間ほどいて、独占状態でした。

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 客殿は非公開です。

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 バスに乗り遅れると一大事ですから、坂をくだりました。

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 バス停は可部屋大橋のそばです。


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 「土筆だれの子 スギナの子」

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 左上に小さく見える標識がバス停を示しています。16時25分発のバスで出雲三成駅に着いたのですが、木次線は18時23分発です。仁多特産市で山菜おこわなどを入手しましたが、ここも17時閉店で、もう片付け始めています。見渡す限り休めそうな場所は駅のベンチだけ。風も冷たくなってきて、1時間以上、ここにいるのは嫌だと思っていたら、出雲横田行きが来たので、乗ってしまいました。列車の窓から景色を見るのは大好きですし、次の駅は『砂の器』で有名になった亀嵩です。奥出雲の方言と東北弁が似ているのが手掛かりになるミステリーでしたね。
 思ったとおり、斐伊川に沿って走る列車の沿線風景は私の好み! 2両編成の列車は終点の出雲横田で切り離して1両編成になるので、いったん下車しなければなりませんが、しめ縄のある楽しい駅でした。
 帰りは木次駅での待ち時間もなく、宍道行きも下りたホームに停車していて、行きよりずっと楽に出雲市駅に着きました。

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出雲三成ー出雲横田 17:28-17:50
 出雲横田ー宍道 18:01ー19:32
 宍道ー出雲市 19:40-20:00

歩数 17959歩

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 追記 4月1日から「奥出雲おろち号」が木次線を走ります。沿線風景がたくさん紹介されていたので、1枚だけお借りしました。幼稚園児が手を振って歓迎してくれた出雲八代駅付近です。子どもたち、大喜びでしょうね。車体の老朽化で今年で終わりだそうです。タクシーの運転手さんは、木次線の廃線を心配されていました。
 


出雲旧家ミュージアム (izumomuseums.org)

出雲流庭園保存会 (izumoteien.jp)

3月28日(火)

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連日、快晴に恵まれました。この日は山陰本線と木次線を乗り継いで出雲三成駅から「たたら製鉄」で富を築いた2軒の旧家を訪ねる予定です。長く「行きたいところ」というファイルの中で眠っていたプランの一つですが、かなり難易度が高いので、いま行かないと一生行けないと思いました。出雲大社をイメージしたJR出雲市駅は平日の8時台でも閑散としています。

出雲市ー宍道 8:39ー8:58

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 宍道駅で木次線に乗り換えます。出雲横田行きは1両編成でもガラガラでした。この駅はバリアフリーではありません。

宍道ー木次 9:09-9:43
木次ー出雲三成 10:08ー10:51 

 木次で乗り換える必要はありませんが、25分、停車します。鉄道ファンらしき方は写真撮影に余念がありません。

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 車窓から見る春を迎えた奥出雲は桜が満開です。茶色い石州瓦の屋根もチラホラ。一駅前の出雲八代駅付近で幼稚園児が総出で手を振って歓迎してくださいました。あとでタクシーの運転手さんから、毎日やっていると伺って、胸が熱くなりました。

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 出雲三成駅で下車したのは私だけでした。無人駅ですが、駅構内の仁多特産市という商業施設の中に観光案内所があります。ここでタクシーを呼んでいただきました。目的地は↓の地図の大きな青い丸の中に記された出雲三成駅からそれぞれ別方向ですが、奥出雲交通バスの時刻表と格闘して、なんとかプランができました。ただし絲原記念館まではタクシーを利用しないと、どうにもなりません。出雲三成の一駅先の亀嵩は松本清張の『砂の器』の聖地です。

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 あいタクシー 0854-54-0181

 運転手さんの楽しいお話を聞きながら、10分もたたずに絲原記念館に着きました。あとで反省したのは、仁多特産市で昼食を調達しなかったことです。山深くて、お店など全くありません。営業しているばずのカフェ「茶房十五代」もお休みです。それもそのはず、2時間以上いて、来館者は私だけでしたから。冬季は閉館で、3月上旬に再開されたばかり。まだシーズンオフでした。

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 タクシーは、左側の門の前につけてくださいます。

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 記念館の前を清冽な小川が流れています。

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 奥出雲地方はたたら製鉄が盛んに行われた地域で、江戸時代末期には日本の鉄の7割を生産していました。それはこの地がたたら製鉄にとって不可欠な豊富な水と森、良質な砂鉄に恵まれ、松江藩の指揮があったからです。
 絲原家は備後国の武士の家柄でしたが、奥出雲に移住して寛永13年(1636)からたたら製鉄業を始めます。江戸時代中期に現在地に高殿(鉄穴鈩)と居宅を移して松江藩の鉄師頭取を務め、大正2年(1923)まで約300年にわたり、たたらの火を燃やし続けました。
 絲原記念館は、絲原家が伝えてきた、たたら資料や松江藩主からの拝領品を含む美術工芸品、家具調度品、古文書などを公開するため、昭和55年(1980)に開館しました。

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 たたら製鉄操業時は木炭倉庫だったエントランスホールに入ると、受付の男性が大歓迎してくださって、付ききりで懇切丁寧かつ情熱的なご説明をいただきました。
 長い廊下の先に第一展示室があって、「たたら製鉄コーナー」と「有形民俗資料コーナー」等に分かれています。

たたら製鉄コーナー

 絲原家の歴史やたたら製鉄にかかわる資料が展示されています。

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 明治以後、洋式製鉄が普及しだすと、山林業に転じ、木次線の前身となる簸上鉄道を開通させますが、1000人近くいた従業員の雇用対策でもあったとガイド役の方が言われていました。

有形民俗資料コーナー

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第二展示室(企画展コーナー)

 大正11年(1922)建設の布団蔵を利用して、絲原家に伝わる美術工芸品を展示しています。3月11日から6月4日まで「江戸文化を作った絵師」と題する企画展が開催中です。

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 判然としませんが、狩野探幽だそうです。横に並んでいた2点は「伝」がついていましたが、このお軸はついていなかったので、真筆ですかね。

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 藤原定家筆「明月記断簡」には驚きました。以前、「なんでも鑑定団」に別の断簡が出て、鑑定額は1200万円でした。本物?と疑ったのですが、東文研のアーカイブに記載されていたので、間違いなさそうです。 

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 こちらは伝狩野探幽。この地方では藩主のお成りのさいは、藩主直筆か狩野派の掛軸を掛けるのが通例だったため、狩野派の掛軸がたくさん所蔵されているそうです。

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 記念館を出て、絲原家住宅と庭園を拝見しました。

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 エントランスホールに面した水琴窟のある庭は、あまり古くはなさそうです。

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 絲原家住宅は、大戸口から土間に入れますが、部屋に上がることはできません。書院・二の間・三の間と三間続きの客殿を持つ母屋棟など、延べ床面積1627㎡、40室の大きな住宅です。一尺一寸角のケヤキの大黒柱とマツの梁が目を引きます。

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 書院や一の間は庭園から拝見できました。

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 それでは絲原家庭園を拝見しましょう。冒頭に名家ミュージアムと出雲流庭園のサイトのリンクを貼っておきましたので、詳しいことはそちらをご覧ください。奥出雲の山々を借景にした池泉回遊式出雲流庭園で、全庭1188㎡、72㎡の池泉を有し、短冊石を中央に置き、周囲に丸石を配する「飛び石組」が特徴です。庭園は砂鉄を採取した跡地に江戸末期から作庭を始めて、約50年後の明治中ごろに完成しました。
 今回の旅では6例ほど、出雲流庭園を見ることができました。 

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 中心に雲龍型のクロマツを植えます。

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 茶室「為楽庵」は、松江の「菅田庵」内の「向日亭」の写しです。

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 左側に雪見燈篭。

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 右側に立燈篭。

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 大きな特徴が飛石組です。

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 御成門を内側と外側から写してみました。

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 この門から奥出雲の山野草300株を植えた林間散策路「洗心之路」に行けるはずですが、開門は4月1日から! 大徳寺真珠庵にある金森宗和作「庭玉軒」を模した二畳台目の茶室も近づけなかったのは残念でした。

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 開館10周年を記念して14代当主が造った楓滝を眺めて、帰ることにしました。今日はランチ抜きです。

 敷地内のあちこちにたたら製鉄の遺構を示す表示がありました。ここにまとめてUPしておきます。

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「砂鉄置場」跡
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鉄を冷やす「鉄池」跡
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たたら製鉄の本工場「高殿」跡
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「木挽小屋」跡
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たたら製鉄で出た「固結滓」
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「釜土場」跡
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「木炭倉庫」跡 

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 昼下がりの道を歩いて、徒歩3分というバス停に向かいました。バス停は白壁の絲原記念館売店の向かいです。

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 冒頭にリンクを貼ったサイトに私の下手な写真とは比べ物にならない写真や動画がありますので、ご覧になってください。

 次の展示室も興味深々です。入口の張り紙でますますテンションが上がりました。わざわざ「本日は全て実物です」と書いてあるのは、レプリカの場合もあるということかしら。入って息をのみました。

 テーマ別展示室・青銅器と黄金の大刀

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 昭和57年(1984)に出雲市斐川町(当時は簸川郡斐川町)で農道建設に伴う遺跡分布調査の際、ある窪みが発掘担当者の目に留まり、幅1.5mほどの試掘溝を入れると、まず7本の銅剣が見つかりました。発掘調査区域が広げられると銅剣の数が増え、ついに358本! 驚天動地。その時点で全国で出土していた銅剣の総数が約300本ですから、たいへんな量です。マスコミが競って報道したので、当時の熱狂ぶりはいまも記憶に残っています。
 昭和58年(1985)の本格的調査で銅鐸6個と銅矛16本が発掘され、新聞はさらに大々的に書きたてました。それまでは北部九州を中心とする銅剣・銅矛・銅戈などの武器型祭器文化圏、畿内を中心とする銅鐸文化圏、さらに瀬戸内海の平型銅剣文化圏に分かれるというのが定説でしたが、その図式が完全に崩れたのです。それから40年近くたって、ずらりと並ぶ実物を前に立ち尽くすしかありません。
 荒神谷遺跡については多くの研究者からさまざまな見解が出されました。最大の謎は、なぜこれだけ大量の青銅器が埋納されたのか。弥生時代晩期の祭祀の終焉とともに全国各地の出土例とは異なるやり方で人知れず埋められ、なんの伝承も残さなかったということだけは明らかです。銅剣・銅鐸・銅矛を用いた祭祀から特定の人々を四隅突出型という特異な墳墓に葬る首長墓儀礼に変化したのだという学説もあるので、2018年に安来を訪ねたおり、JRで一駅先の荒島まで行って「古代出雲王陵の丘」の四隅突出型の墳墓を見学した日の記憶が蘇ってきました。

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 ジオラマもたくさんあって、わかりやすい展示です。

 われに返って、次のコーナーに行きました。大量の銅鐸が並んでいます。平成8年(1996)に島根県雲南市加茂町岩倉の人里離れた山の斜面を重機で掘削しているときに最初の発見がありました。その後、2年かけて発掘調査をしたところ、一か所から出土した数としては最多となる39個の銅鐸が発見され、またまた大騒ぎ。すべて国宝に指定された銅鐸群の前に立つと心拍数が上がります。
 加茂岩倉遺跡は荒神谷遺跡から山を隔てて3.4㎞の場所にあり、両遺跡から出土した銅鐸には同じ「×」の刻印があることから、なんらかの関係がありそうです。また同じ鋳型で作った「兄弟銅鐸」が近畿・四国など西日本に広がっていることがわかったのも興味深い研究成果です。

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 銅鐸は横に寝かされた状態で発見されたので、展示室ではその状態を再現しています。年齢性別を問わず、理解が深まるような試みが随所に見られ、これまで拝見した博物館の中でも展示の工夫がとりわけ秀逸だと思いました。

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 39個の銅鐸のうち、2例を挙げておきます。上掲の加茂岩倉10号銅鐸は、鈕(吊り手)の中央に頭を右に傾けたウミガメが刻まれています。銅鐸や弥生土器に描かれるカメは淡水性のカメがほとんどで、外洋性のカメはかなり稀です。このことも何かを示唆しているのかもしれません。六区袈裟襷文で、下辺横帯と鈕の外縁に重弧文が施されています。

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 加茂岩倉35号鐸の中に36号鐸が入れ子のように入っていました。35号鐸は、角の生えたシカやイノシシのような獣、羽を広げたトンボなどで飾られて、四区袈裟襷文が施されています。


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 拡大してみました。右上の角の生えたシカが可愛いですね。

 また思い出話で恐縮です。昭和38年(1964)に神戸市灘区桜ケ丘で銅鐸14個、銅戈7本が発見されて大きな話題になりました。土木工事中に銅鐸を見つけた人はなんだかわからず、お店の前に並べていたところ、教育委員会に話が伝わって、のちに白鶴美術館で展覧会が開かれたので、見に行きましたが、加茂岩倉遺跡は数の上でもはるかに上回ります。これまでに発見された銅鐸約470個のうち50個が出雲地方から出土しているのも興味深いテーマの一つです。

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 鏡に関しては、雲南市の神原神社古墳から出土した「景初三年銘」のある三角縁神獣鏡が展示されています。三角縁神獣鏡自体は300面ほど出土していて、それほど珍しいものではありませんが、魏の年号の「景初三年銘」がある出土例は2面だけです。『魏志倭人伝』に魏の皇帝が邪馬台国の女王卑弥呼の使者に銅鏡100面を与えたと書いてあることから大きな注目を集めていますが、論争の結論がまだ出ていないので、深入りは避けておきます。この展示でも「卑弥呼の鏡か」と書いているのは意味深長ですね。

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 馬上の大首長の雄姿を再現しています。この博物館は解説が親切で、いくら時間があっても足りないほどです。
 
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 日本に鉄製の武器が伝えられたのは弥生時代中期で、弥生時代中期から古墳時代前期にかけて長い剣と大刀が全国的に出土していますが、それらは中国大陸からの渡来品であったと考えられています。
 

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 古墳時代の中期から後期にかけて、刀剣の装飾が非常に豊かになりました。写真は金銅製環頭大刀(松江市御嶽山古墳出土)です。解説によると、大刀には舶載系の双龍環頭大刀と倭系の円頭大刀があって、前者は杖のように立てて使い、後者は腰に下げていましたが、やがて腰に下げる方式に統一されました。稲荷山鉄剣の「杖刀人」を思い出しますね。


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 安来市かわらけ谷横穴墓出土の円頭大刀と環頭大刀が並んで展示されています。

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 いちばん上は海士町出土の方頭大刀、下は出雲市上塩治築山古墳出土の円頭大刀です。

 ※大刀と太刀の違いについても説明がありました。大きな違いが三つある。①使用された時代・・大刀は弥生時代から古墳時代、太刀は平安時代から室町時代 ②刀身の形・・大刀は反りがない、太刀は反り返っている ③身に付け方・・大刀は杖を付くように立てるか刃を下に向けて腰に吊りさげる、太刀は刃を下に向けて横向きに腰に吊り下げる

 最後の力を振り絞って、総合展示室を見せていただきました。

 テーマ別展示室・島根の人々の生活と交流

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 四隅突出型墳丘墓の代表例・出雲市大津町の西谷3号墳の模型、古墳時代の埴輪、玉作、たたら製鉄など、古代から現代までの島根の人々の生活と交流の歴史を紹介する楽しい展示でしたが、もう体力の限界です。

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 2階のカフェで一息つきました。窓の下には出雲平野をイメージした平らな庭園が広がります。周りには『出雲国風土記』に出てくる植物が植えられているそうです。

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 正面入口からは入れません。

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 帰りは迷子になりかけました。ここから先の広い道に出たら、上り坂になっている方向に行きましょう。
 正門前のバス停で16:22発の出雲市駅行きのバスに乗ると、約30分でホテルの前に着きます。一畑電鉄系列の典型的なビジネスホテルですが、交通の便が抜群なので選びました。

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 悪い癖で、旅に出ると極限まで体力を消耗してお食事が二の次になってしまいます。1分で行けるお店を探して、ネットで予約しました。人生で2度目の居酒屋体験です。驚いたことに次々と来店されますが、満員札止めで、予約のない方は入れません。お魚は新鮮ですが、お野菜が・・・。お酒は地酒の「奥出雲」。

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 地魚造り6点盛
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のどぐろ煮付
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島根和牛モモステーキ
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島根和牛赤ワイン煮込み

 3泊して、まともな夕食はこれだけでした。疲労困憊、ホテルに戻るともう動けません。わりあい律儀なほうで、予約すると這ってでも行きますが、疲れると食事すら面倒になってしまいます。

歩数 16952歩

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