東神苑から徒歩数分で博物館の看板に出会いましたが、その後ろの警告に・・・。
誰もいないし、イノシシ出没は嫌だし、急ぎ足になりました。
前方の桂の並木道は、たたら製鉄を伝えた金屋子神が白鷺に乗って「桂の木」に舞い降りたという言い伝えにちなんでいます。全長は約109mで、高さが48mあったと伝えられる古代出雲大社の引橋(階段)と同じ長さです。
2007年3月に開館した島根県立古代出雲歴史博物館はこれまで訪ねた博物館の中でも出色の博物館でした。槙文彦氏が設計した島根県立古代出雲歴史博物館の外観は無機質な印象を受けましたが、茶色の外壁はコールテン鋼できていて、古代から続く「たたら製鉄」をイメージしているそうです。コールテン鋼は、あえてサビを出した鉄鋼で、鉄板に皮膜をつくることで耐久性を失わないようにしている素材です。鉄とともに多用されているガラスは現代性を表しています。なお平成7年3月から耐震工事を含む改修工事のため休館する予定ですから、ご興味のある方はお早めに。
※「❶出雲大社」の記事と重複している部分がありますが、お許しください。
どういうわけか、正面出入口は出口専用で、東出入口から入るようになっていました。ガラス張りの廊下を歩いて中央ロビーに着くと、ドーンと置かれているのが宇豆柱(実物)と心御柱(複製品)。腰を掛けられる場所がたくさんあって、優しい博物館です。撮影も企画展以外は許されています。
平成12年(2000)から12年(2001)にかけて出雲大社境内遺跡から杉の大木3本を1組にした直径約3mの巨大な柱が三か所で発見されました。中央ロビーに展示されているのは宇豆柱と呼ばれてきた棟を支える棟持柱で、豊富な地下水のお陰で奇跡的に当時の姿を留めています。直径が最大で約6mの柱穴に大きな石が積まれた掘立柱の地下構造も明らかになり、柱の配置や構造は出雲大社宮司の千家国造家秘蔵の「金輪御造営差図」に描かれたものと類似していました。
「金輪御造営差図」に描かれた柱の配置と構造です。引橋(階段)は長さ一町(約109m)と書いてありますが、高さは書いてありません。残念ですね。
その後の柱材の科学的分析調査や考古資料、絵画、文献記録などの調査から、この柱は鎌倉時代前半の宝治2年(1248)に造営された本殿を支えていた柱である可能性が高いことが判明しています。
私の下手な写真では判然としないので、博物館のHP所載の写真をお借りしました。迫力があります。
企画展の「出雲神楽」は映像も豊富で、見ごたえがありましたが、常設展のほうが魅力的でしたので、20分ほどで退出しました。神楽は島根県を代表する民俗芸能の一つで、県東部の出雲地域で約70団体によって伝承されています。 神話や伝説を題材にした娯楽的な演目とともに儀式的な演目や神がかりにより神の託宣を聞く「託宣神事」も受け継がれてきました。企画展では出雲神楽の歴史や特色を物語る史料、地域色豊かな神楽面などを通して、出雲神楽の姿を示しています。
常設展は想像以上に中身の濃いい展示内容で、夢中で拝見しました。テーマは「出雲大社と神々の国のまつり」「出雲国風土記の世界」「青銅器と金色の太刀」「島根の人々の生活と交流」「神話回廊」に分かれていますが、最初の二つのテーマを集中的に見せていただき、残りは少しそそくさと。
出雲大社と神々の国のまつり
いちばん奥に2008年の遷宮の際に外された千木・鰹木が少し見えます。
展示室に入るや否や目を奪われるのが、平安時代の出雲大社本殿1/10推定復元模型です。この模型は大林組プロジェクトチームが建築学者の福山敏男氏の監修で造り上げた設計案に基づいています。詳細は『古代出雲大社の復元ー失われたかたちを求めて』1989年刊に記されていますが、中心の柱(心御柱)の直径は約3.6m、階段の長さは約109mです。天井まで届きそうな巨大な模型を眺めて、しばしウワーッとなりました。福山氏は戦前に平安時代の本殿を想定した設計図を作成されています。2000年の巨大柱発見以前にこういう設計図を想定していた学者はごくわずかでしたので、先見の明がおありですが、1995年に亡くなられたのが惜しまれます。
福山氏の復元図は神話学者の松前健著『出雲神話』昭和51年(1976)刊のカットにも使われていますから、ある程度は知られていたと思いますが、ビジュアルな復元はインパクトがありました。
出雲大社神殿正面復原図(福山敏男氏による)
その横に並ぶ五つの模型は、古代出雲歴史博物館が5人の建築学者と共同研究を進め、5人の学者が自分の学説にそって本殿を1/50 の模型で再現したものです。
右から藤澤彰案(16丈・約48m)、宮本長二郎案(16丈・約48m)、黒田龍二案(11丈・約33m)、浅川滋男案(11丈・約33m)、三浦正幸案(8丈・約24m)が並んでいますが、 それぞれ違っていて、どの説が正しいのか、見当もつきません。黒田氏は出土した柱と同じ年代の鎌倉時代の境内を描いた絵図をもとに高さを算出されていますが、階段の角度が厳しくて、私なら上がれません。「金輪御造営差図」に従って階段の長さを109mと想定すると、境内を突き抜けてしまうという問題もあります。本殿は5回も転倒したという記録があるので、不安定だったようです。
左から出雲大社本殿(出雲造) 豊受大神宮・伊勢神社外宮正殿(神明造) 住吉大社本殿(住吉造)
宇佐神宮本殿(八幡造) 賀茂別雷神社本殿(流造) 春日大社本殿(春日造)
続いて、現在の出雲大社本殿の模型および各地の神社建築の模型が並んでいます。大社造の構造は、掘立柱、切妻造、妻入り(建物の妻側に入り口を設けて正面とする建築様式)で、屋根は優美な曲線を描いているのが特徴です。
写真を撮り損ないましたが、2008年の遷宮で取り外された千木・鰹木が展示されていました。本殿には近づけないので、本殿の一部を見られる貴重な展示です。
文献資料で復元の手がかりとなった『口遊』のレプリカも展示されていました。❶でも触れましたが、『口遊』は天禄元年(970)に源為憲が貴族の子弟のために作った教科書で、著名なものを紹介するさい、大きさの順位を口で唱えて覚えやすいように編集されています。その中の「今案、雲太謂出雲国城築明神神殿【在出雲郡】。和二謂大和国東大寺大仏殿【在添上郡】。京三謂大極殿、八省」という記述は、当時の大型建物の高さの順位を表したものだとされています。つまり、出雲の杵築大社(現在の出雲大社)の神殿が最も高く、二番目が大和国の東大寺大仏殿、三番目が平安京の大極殿と認識されていたことがわかりますが、当時の大仏殿の高さは約45mと考えられるので、出雲大社の神殿はそれよりも高かったと推測されます。
『口遊』(レプリカ)の内容が図で示されていて、わかりやすいです。
※この博物館の展示物ではありませんが、古代の建築を想定するうえで参考になる考古資料を挙げておきます。
米子市淀江町の稲吉角田遺跡から出土した紀元前1世紀ごろと推定される弥生土器に古代出雲の杵築大社の原始の姿を想像させるやぐら状建物が描かれていることがわかりました。1980年ごろの調査によると、この土器は、口径約50cm、推定高120 cm以上の大型壷で、口縁部から頸部にかけて6種類の絵画(鹿、太陽、樹木+銅鐸、高床式建物 、やぐら状建物、舟を漕ぐ人)が描かれています。
もう一例は香川県善通寺市から出土した国宝の銅鐸絵画です。
※長くなるので、ここでいったん終了します。