八十路の独り旅

八十路を元気で歩いています。先人の暮らしに想いを馳せ、未知なるものに憧れ、懐旧の念に浸りましょう。

  追記 荷物が増えるのが嫌で、帰宅してから 注文した展示ガイドが届きました。またまたハイになっています。少し書き足したり、訂正した部分があります。    

  東神苑から徒歩数分で博物館の看板に出会いましたが、その後ろの警告に・・・。


20230327_140109

20230327_140123

 誰もいないし、イノシシ出没は嫌だし、急ぎ足になりました。

20230327_140321

 前方の桂の並木道は、たたら製鉄を伝えた金屋子神が白鷺に乗って「桂の木」に舞い降りたという言い伝えにちなんでいます。全長は約109mで、高さが48mあったと伝えられる古代出雲大社の引橋(階段)と同じ長さです。

IMG_20230402122218

 2007年3月に開館した島根県立古代出雲歴史博物館はこれまで訪ねた博物館の中でも出色の博物館でした。槙文彦氏が設計した島根県立古代出雲歴史博物館の外観は無機質な印象を受けましたが、茶色の外壁はコールテン鋼できていて、古代から続く「たたら製鉄」をイメージしているそうです。コールテン鋼は、あえてサビを出した鉄鋼で、鉄板に皮膜をつくることで耐久性を失わないようにしている素材です。鉄とともに多用されているガラスは現代性を表しています。なお平成7年3月から耐震工事を含む改修工事のため休館する予定ですから、ご興味のある方はお早めに。

 ※「❶出雲大社」の記事と重複している部分がありますが、お許しください。


IMG_20230402122640

IMG_20230402122338

 どういうわけか、正面出入口は出口専用で、
東出入口から入るようになっていました。ガラス張りの廊下を歩いて中央ロビーに着くと、ドーンと置かれているのが宇豆柱(実物)と心御柱(複製品)。腰を掛けられる場所がたくさんあって、優しい博物館です。撮影も企画展以外は許されています。

 平成12年(2000)から12年(2001)にかけて出雲大社境内遺跡から杉の大木3本を1組にした直径約3mの巨大な柱が三か所で発見されました。中央ロビーに展示されているのは宇豆柱と呼ばれてきた棟を支える棟持柱で、豊富な地下水のお陰で奇跡的に当時の姿を留めています。直径が最大で約6mの柱穴に大きな石が積まれた掘立柱の地下構造も明らかになり、柱の配置や構造は出雲大社宮司の千家国造家秘蔵の「金輪御造営差図」に描かれたものと類似していました。

80214

 「金輪御造営差図」に描かれた柱の配置と構造です。引橋(階段)は長さ一町(約109m)と書いてありますが、高さは書いてありません。残念ですね。

 その後の柱材の科学的分析調査や考古資料、絵画、文献記録などの調査から、この柱は鎌倉時代前半の宝治2年(1248)に造営された本殿を支えていた柱である可能性が高いことが判明しています。


20230327_144109a

w016_2018121220432032644

 私の下手な写真では判然としないので、博物館のHP所載の写真をお借りしました。迫力があります。

 企画展の「出雲神楽」は映像も豊富で、見ごたえがありましたが、常設展のほうが魅力的でしたので、20分ほどで退出しました。神楽は島根県を代表する民俗芸能の一つで、県東部の出雲地域で約70団体によって伝承されています。 神話や伝説を題材にした娯楽的な演目とともに儀式的な演目や神がかりにより神の託宣を聞く「託宣神事」も受け継がれてきました。企画展では出雲神楽の歴史や特色を物語る史料、地域色豊かな神楽面などを通して、出雲神楽の姿を示しています。

IMG_20230402121959

 常設展は想像以上に中身の濃いい展示内容で、夢中で拝見しました。テーマは「出雲大社と神々の国のまつり」「出雲国風土記の世界」「青銅器と金色の太刀」「島根の人々の生活と交流」「神話回廊」に分かれていますが、最初の二つのテーマを集中的に見せていただき、残りは少しそそくさと。

出雲大社と神々の国のまつり

20230327_144916

 
いちばん奥に2008年の遷宮の際に外された千木・鰹木が少し見えます。

20230327_145429

20230327_144835

 展示室に入るや否や目を奪われるのが、平安時代の出雲大社本殿1/10推定復元模型です。この模型は大林組プロジェクトチームが建築学者の福山敏男氏の監修で造り上げた設計案に基づいています。詳細は『古代出雲大社の復元ー失われたかたちを求めて』1989年刊に記されていますが、中心の柱(心御柱)の直径は約3.6m、階段の長さは約109mです。天井まで届きそうな巨大な模型を眺めて、しばしウワーッとなりました。福山氏は戦前に平安時代の本殿を想定した設計図を作成されています。2000年の巨大柱発見以前にこういう設計図を想定していた学者はごくわずかでしたので、先見の明がおありですが、1995年に亡くなられたのが惜しまれます。
 福山氏の復元図は神話学者の松前健著『出雲神話』昭和51年(1976)刊のカットにも使われていますから、ある程度は知られていたと思いますが、ビジュアルな復元はインパクトがありました。

IMG_20230402164637

IMG_20230402163713
出雲大社神殿正面復原図(福山敏男氏による)

20230327_144809
 
 その横に並ぶ五つの模型は、古代出雲歴史博物館が5人の建築学者と共同研究を進め、5人の学者が自分の学説にそって本殿を1/50 の模型で再現したものです。
 右から藤澤彰案(16丈・約48m)、宮本長二郎案(16丈・約48m)、黒田龍二案(11丈・約33m)、浅川滋男案(11丈・約33m)、三浦正幸案(8丈・約24m)が並んでいますが、 それぞれ違っていて、どの説が正しいのか、見当もつきません。黒田氏は出土した柱と同じ年代の鎌倉時代の境内を描いた絵図をもとに高さを算出されていますが、階段の角度が厳しくて、私なら上がれません。「金輪御造営差図」に従って階段の長さを109mと想定すると、境内を突き抜けてしまうという問題もあります。本殿は5回も転倒したという記録があるので、不安定だったようです。


20230327_145327
左から出雲大社本殿(出雲造) 豊受大神宮・伊勢神社外宮正殿(神明造) 住吉大社本殿(住吉造)
20230327_145338
宇佐神宮本殿(八幡造) 賀茂別雷神社本殿(流造) 春日大社本殿(春日造)
 
 続いて、現在の出雲大社本殿の模型および各地の神社建築の模型が並んでいます。大社造の構造は、掘立柱、切妻造、妻入り
建物の妻側に入り口を設けて正面とする建築様式)で、屋根は優美な曲線を描いているのが特徴です。

hirairi_2-e1598162537318
R (4)taisya

 写真を撮り損ないましたが、2008年の遷宮で取り外された千木・鰹木が展示されていました。本殿には近づけないので、本殿の一部を見られる貴重な展示です。

 文献資料で復元の手がかりとなった『口遊』のレプリカも展示されていました。❶でも触れましたが、『口遊』は天禄元年(970)に源為憲が貴族の子弟のために作った教科書で、著名なものを紹介するさい、大きさの順位を口で唱えて覚えやすいように編集されています。その中の「今案、雲太謂出雲国城築明神神殿【在出雲郡】。和二謂大和国東大寺大仏殿【在添上郡】。京三謂大極殿、八省」という記述は、当時の大型建物の高さの順位を表したものだとされています。つまり、出雲の杵築大社(現在の出雲大社)の神殿が最も高く、二番目が大和国の東大寺大仏殿、三番目が平安京の大極殿と認識されていたことがわかりますが、当時の大仏殿の高さは約45mと考えられるので、出雲大社の神殿はそれよりも高かったと推測されます。

kuchizusami_2

o0600045011526407053

 『口遊』(レプリカ)の内容が図で示されていて、わかりやすいです。

この博物館の展示物ではありませんが、古代の建築を想定するうえで参考になる考古資料を挙げておきます。

dokie_1

ダウンロードinayosi

  米子市淀江町の稲吉角田遺跡から出土した紀元前1世紀ごろと推定される弥生土器に古代出雲の杵築大社の原始の姿を想像させるやぐら状建物が描かれていることがわかりました。1980年ごろの調査によると、この土器は、口径約50cm、推定高120 cm以上の大型壷で、口縁部から頸部にかけて6種類の絵画(鹿、太陽、樹木+銅鐸、高床式建物 、やぐら状建物、舟を漕ぐ人)が描かれています。

R (4)doutaku


 もう一例は香川県善通寺市から出土した国宝の銅鐸絵画です。

 ※長くなるので、ここでいったん終了します。


3月27日(月)  
  空の旅は2020年11月以来で少し緊張しましたが、JALのスタッフの行き届いたサービスに感謝しながら出雲空港に着きました。到着時間が15分ほど遅れたため、日御碕神社は潔く諦めて、出雲大社と古代出雲歴史博物館 に絞ったのは、かえってよかったかもしれません。空港には出雲大社行きと出雲市駅行きのバスが待機していて、出雲大社行きを選びました。運転手さんも親切で、バス停ごとにコインロッカーの場所をアナウンスされたのは流石です。 バスの中で配られた案内図がいちばん新しいそうです。通常なら宇迦橋を渡って「一の鳥居」を潜りますが、工事中のため迂回して横から大きな鳥居を眺めました。バスの窓から眺めた神門通りは賑やかで楽しそう。正門前に近づくと「あれが大社でいちばん古い竹野屋旅館で、竹内まりやさんの実家です」という情報もいただきました。リニューアルしてベッドのお部屋もあるようで、この選択肢もありですね。

IMG_20230401101945


 バスの時刻表w002_2022100313261693340.pdf (izumo-kankou.gr.jp)

 上掲の境内図の「勢溜」から至近距離の正門前バス停で下車すると、目の前に「二の鳥居」が立っています。ご縁横丁地階のコインロッカーまでエレベーターで行けて、料金が300円だったのも好感度アップ。「出雲大社」と刻んだ大きな石碑の横に建つ高さ8.8m、横幅12mの鋼管製の鳥居が出雲大社の正門で、この先が参道です。

20230327_125304

20230327_125534

「二の鳥居」横の広場に咲く桜

 「二の鳥居」から「三の鳥居」までは❷「下り参道」となっています。神社仏閣の参道で下り参道はめったにないとか。傾斜は写真で見るより少し厳しいです。藪椿は散っていました。

20230327_125706

20230327_125844

 ❹「浄の池」は、紫陽花や蓮の花が咲くと見事だそうですが、いまは東屋が桜の花で覆われていました。 

20230327_130119

 ❻「祓橋」の下を流れる川は出雲大社の背後の八雲山から流れる「素鷲川」です。

20230327_135535

20230327_131405

 「東神苑」の背後に亀山が見えます

 「祓橋」を渡り「三の鳥居」を潜ると、❼「松の参道」が続きます。参道は中央と両側の三つに分けられ、中央は神様の通り道とされて、昔は神職と皇族以外は通れませんでした。いまは松の根の保護のためにやはり通れません。「松の参道」の東側に「東神苑」が広がり、子どもがサッカーボールを蹴ったり、家族でお花見をしたり、楽しそうでした。ベンチがあるので、空港で求めた空弁でいともチープなピクニックランチをいただきましたが、ご縁横丁の飲食店は行列ができていましたから、時間の有効活用です。

20230327_130557

20230327_130320

20230327_135128

 「松の参道」の松は寛永年間(1630年ごろ)に松江藩主の堀尾忠氏の夫人が祈願成就のお礼に奉納されたものです。

20230327_131843

 社務所の前に着きました。広大な「御祓所」とつながっています。

20230327_132143

 「御祓所」です。

keidai-img9

 ⓬「銅鳥居」は天正8年(1580)に毛利輝元が寄進しますが、損傷部分が多かったため、寛文6年(1666)に毛利輝元の孫綱広が造り直しました。銅製の鳥居としては、わが国で最も古く重要文化財に指定されています。

20181009233728keidai

 「銅鳥居」から荒垣で囲まれた境内に入ると、「宝物殿」「拝殿」「御守所」「祈祷受付」などが並んでいます。時間がなくて「宝物殿」に入れなかったのが残念。「八脚門」の先の玉垣で囲まれた場所は禁足地のような感じでした。

20230327_132314

 昭和34年(1959)に再建された「拝殿」は、戦後最大の木造神社建築と言われ、高さは12.9mで、大社造りと切妻造りの折衷様式です。しめ縄が一般の神社とは左右逆なのだそうです。

20230327_132503

 「拝殿」の奥に寛永7年(1667)に建立された「八足門」が建っています。御祭神に最も近づける門で、通常はここから「御本殿」を参拝します。「御本殿」と「八足門」の間に「楼門」があり、正月五か日は「八足門」が開放されて「楼門」前まで入る事ができるそうです。
 左端に立っている女性の足元が要注意です。あとで古代出雲歴史博物館に行って、意味がわかりました。この地点が「宇豆柱」にかかわる重要な遺跡が見つかった場所で、その成果を踏まえて平安時代の本殿の復元模型が作られています。

R (4)uzubasira

20230327_132421

 右側の長い建物が「東十九社」、左側の建物は「観祭楼」です。東西の「十九社」に旧暦10月の神在月(全国的には神無月)に全国から八百万の神々が集まり、7日間の神議り(かむはかり)の間、ここに宿泊されますが、その間は東西「十九社」の19の扉がすべて開かれます。

20230327_132451

 「観祭楼」の二階部分に二つの畳敷きの部屋があって、朝廷や幕府の要人、藩の重臣などが南側の境内を見ることができました。

w016_2019011111251956977honden

 
「御本殿」には近づけませんので、この写真は出雲大社のHPから借用させていただきました。大社造りと呼ばれる日本最古の神社建築様式で、現在の高さ24mの「御本殿」は延享元年(1744)に完成しました。60年に一度、厚さ1mの檜皮葺きの屋根を葺き替えてご遷宮を行います。
 今回の旅にあたって松前健著『出雲神話』などを読み返してみましたが、調べれば調べるほど謎が深まってしまいます。思い切ってまとめてみると、出雲大社は出雲固有の神であり開拓神・農耕神の性格を持つオオナムチ(一般にはオオクニヌシとして知られています)の神殿で、社殿の高大さは古くから著名でした。社伝では、上古は32丈(96m)、中古は16丈(48m)、現在は8丈(24m)になったと記しています。また10世紀に貴族の子弟の教育のために書かれた『口遊』の中の「雲太、和二、京三」は建物の大きさをランクづけたもので、和二( 東大寺大仏殿・当時の高さは約45m)や京三(平安京の大極殿)よりも出雲大社が巨大だったということになりますが、地上48mの建物が平安時代の出雲に存在したとは信じがたいというのが大方の意見でした。
 ところが
2000年から翌年にかけて、出雲大社の境内で3本の巨木を一つに束ねた直径3メートルにも及ぶ柱が3カ所で出土します。これは宮司の千家国造家に伝わる「金輪御造営差図」の信憑性を裏付ける発見でした。先ほどの「拝殿」前の三つの円形は、遺構の一つを示すポイントです。出雲大社のかつての姿については、古代出雲歴史博物館の項で触れたいと思います。
 出雲大社の創建時期は明確ではありませんが、出雲市の青木遺跡で「大社造り」に似た奈良時代の遺構が確認され、そこに原形をみる意見があります。さらに『日本書紀』の斉明5年(659)に出雲国造に「厳神之宮」を修理させたという記事があって、これを出雲大社と考えれば7世紀にはすでに存在していたかもしれません。

 現在の「御本殿」は下図の通りで、最高部に千木・鰹木を乗せています。  


81306024005758

112887
 西側の門を出ると素鵞川が流れています。近くに広い駐車場があるので、観光バスで来られた方は、ここから入られるようです。

20230327_132942

20230327_132832


20230327_132935

 川の畔に「勤王士松本巖遺跡」と書いた石碑が立っています。慶応4年(1867)1月に戊辰戦争が勃発すると、新政府側は18歳の西園寺公望を山陰道鎮撫総督に任命し、新政府側の権力を確立するため山陰道に向かわせました。1月5日に御所の蛤御門を出た一行は、福知山、豊岡、米子などを経て、松江に到着しますが、幕府側であった松江藩が西園寺総督に下ったのは、出雲国造家に仕えていた松江藩随一の勤王家・松本巖(古堂)の尽力が大きかったと言われています。なお、2日後に訪ねた雲州平田の木佐本陣(平田本陣・・現在は移転・再建)や宍道の八雲本陣にも西園寺総督は止宿しています。

20230327_133248

20230327_134025

 素鵞川に沿って、昭和56年(1981)に造営された神楽殿が建っています。神社建築には珍しく、正面破風の装飾にステンドグラスを使った建物は、祭典・祈願・結婚式などに用いられています。日本最大級の大注連縄が人気でした。

20230327_133535

 神楽殿に面した鏡の池の前で小休止。ずっと歩き詰めでクタクタです。

20230327_133603

20230327_134159

 これが出雲国造家の門か、小さい! と思ったら、通用門でした。

20230327_134359

20230327_134341

 失礼しました。こちらが正門です。「千家国造館」は、代々宮司として出雲大社に奉仕される出雲国造・千家の住居であると同時に厳重な潔斎の場でもあります。

 一種の祭祀王であった出雲国造も謎の多い存在です。「出雲国造神賀詞」に踏み込むのはやめておきますが、伝説によれば、出雲国造はオオナムチ(オオクニヌシ)を祀る天日隅宮=出雲大社の祭祀を担ったアメノホヒを始祖とするとされています。7世紀半ばの大化の改新以後、国造制は全国的に廃止されましたが、出雲国造は紀伊国造などとともにごく一部の例外的な氏族として国造の称号の存続を許され、出雲国造家の称号と出雲大社の祭祀職務は南北朝時代に入るまでは一子相伝でした。
 ところが康永3年(1344)に相続争いで千家氏と北島氏に分かれ、それぞれが出雲国造を名乗るようになりますが、幕末まで出雲大社の祭祀職務を平等に分担していました。現在は千家氏が出雲大社の宮司を務めています。
 北島国造家の四脚門も見たかったのですが、割愛しなければなりません。見どころが多くて、日御碕神社に行っていたら、たいへんなことになるところでした。もし次があれば、竹野屋旅館に泊まって、出雲神話の世界を満喫したいのですが・・・。

20230327_135347

 「銅鳥居」まで戻って、東神苑を経て古代出雲歴史博物館に急ぎました。途中に「杵那築の森」の鳥居がありますが、鳥居だけで森そのものが信仰の対象になっています。『出雲国風土記』の「杵築の郷」条には、オオナムチの住まいをたくさんの神々が集まって築いたので、この地を杵築と言うと地名の由来が記され、この森は神々の住まいの故地だ、土を突き固めた杵を埋納した場所だと伝えています。

20230327_130443

 出雲大社から古代出雲歴史博物館は、右奥の看板に従って右方向に行くのが近道です。

 3月14日(火)

 今回の旅の大事な目的は姉に会うことですが、午前中は検診で不在というので13時に姉宅に着く約束です。それまでの時間を利用して、ykさまのブログを拝見していつか行こうと思っていた本法寺を予定に加えました。幸運にも長谷川等伯の「佛涅槃図」(お寺のパンフレットは「佛涅槃図」で、ポスターは「大涅槃図」、どちらが正しいのかわかりませんが、「佛」にしておきます) の正筆がこの日から一か月前、公開されますから、ルンルン気分です。市バスは昨日と同じ12系統で、大徳寺よりは近くて所要時間は27分。バスに乗り合わせたドイツ語を話す10人ほどのグループは、二条城前で下車するや否や一斉にマスクを外されました。
 堀川寺ノ内でバスを降りて、ykさまが帰りに通られた小川通に入ると、ある看板を見つけました。小川通は堀川通から一つ東の通りです。

20230314_094536

dodobashi4-576x1024 12da69be

 看板を読んでみて驚きました。この石は応仁の乱(1467~1477)の戦場として名高い「百々橋」の礎石の一つですって! 京都を歩いていると、あちこちで応仁の乱で焼失という話に出会います。内緒ですけど、あるサイトのPWは応仁の乱の年号が入っています。あたり障りのないサイトですから、構いません。
 百々橋は当時、このあたりを南北に流れていた小川に架かっていた長さ7.4m、幅4mの橋で、応仁の乱の際、東軍の細川勝元と西軍の山名宗全が百々橋を隔てて数度にわたって合戦を行いました。当時は板橋でしたが、近世に石橋に架け替えられています。小川は「こかわ」と読むそうです。地名は難しいですね
 小川に隣接して細川勝元の邸宅・小川殿がありました。近くにこれ以外の橋がなかったので、激戦地となったようです。織田信長から上杉謙信に贈られたと伝えられる狩野永徳筆の上杉本「洛中洛外図屏風」には細川殿(小川殿)に隣接して百々橋が描かれていますが、米沢でこの屏風の実物を観たときは、全く気が付きませんでした。

1563024993

 昭和38年(1963)に小川が埋め立てられ、橋は解体されました。その後、橋の石材の大部分は洛西竹林公園内に移され、橋も復元されますが、橋脚を支える4基の礎石のうちの1基がここに残されました。実は、今回の旅のプランを立てたとき、ホテルのある四条河原町から阪急電車で行ける向日市の長岡京跡や竹の径、洛西竹林公園も候補に挙げていました。でも、ここを見てから行ったほうがいいですね。筍の季節に行けたらいいなと夢は膨らみます。

dfef748d801d52af03823cb5bd57380c041a8c79

 ここから本法寺に向かう道の右側に表千家(不審庵)と裏千家(今日庵)が建っています。
 
20230314_094647

 表千家「不審庵」の門前に「利休居士遺蹟」と刻んだ石柱が立っています。「不審庵」は、大徳寺門前の利休屋敷に建てられた四畳半の茶室の号でしたが、時代の流れとともに形や場所を変えて、いまにいたります。何度も火災に遭い、現在の建物は大正2年(1913)に建てられました。

20230314_094821

 裏千家「今日庵」は、千家三代宗旦が隠居所として建てた茶室に始まりますが、現在の建物は天明の大火(1788)で焼失した直後に再建された建物です。

20230314_094844

 本法寺に着きました。堀川通から入ったほうが近道ですが、帰りは時間がタイトなので、小川通に面した山門から入ります。内部を拝観できる10時まで境内をゆっくり歩きました。山門は楼門で仁王門ですから、どう呼べばいいのか困ります。

230314-0415_spring

IMG_20230320093440

 本法寺は、室町時代に活躍した日親上人によって開創されました。自分語りになりますが、幼いころは娯楽といえばラジオぐらいで、本をむさぼるように読んでいました。家にあった「小学生全集」は内容が多岐にわたっていて、いろいろなことを知りましたが、真っ赤に灼けた鍋をかぶせる拷問に遭ったので「鍋かぶり日親」と呼ばれたという逸話があったので、身近に感じます。単行本では京大事件で教授を辞職した恒藤恭著『人間はどれだけの事をしてきたか(一)』が忘れられません。なぜか本を読むのを禁じる継母の目を盗んで、こっそり読んでいました。
 日親上人は幕府や他宗を激しく批判したので、何度も法難に遭ました。本法寺も各地を転々としますが、天正15年(1587)に豊臣秀吉の聚楽第建設に伴う都市整備の影響で、現在の場所に移転し、本阿弥光二・光悦親子の支援を受けて、堂塔伽藍が整備されます。ところが裏千家の「今日庵」が焼失した「天明の大火」に被災し、経蔵と宝蔵を残すだけとなりました。いまの本法寺の大部分は、その後の再建です。

20230314_094946

20230314_095030

 優美な多宝塔は、江戸時代の寛政年間(1700年代)の建立で、高さは約15m、洛中では唯一の多宝塔です。白い多宝塔は珍しいですね。

20230314_095106

df84f88767db9f504e42979ce37b812be753b2b8.37.2.9.2

 寛政9年(1797)に再建された本堂の扁額は本阿弥光悦筆です。

20230314_095131

 本堂の前に「光悦翁手植之松」と「長谷川等伯像」が並んでいます。この像は、先年、訪ねた七尾駅前の等伯像「青雲」と全く同じです。七尾の等伯像は平成2年(1990)に七尾出身の彫刻家・田中太郎が等伯の京都への旅立ちを表現して制作した像で、七尾駅前の道路沿いにこの像を染めた幟がずらっとはためいていました。

OIPnanao

20230314_095353

20230314_095508

20230314_095638

 本法寺には三つの庭園がありますが、庫裡の前の光悦垣に囲まれた「十(つなし)の庭」は、「巴の庭」の修復工事に伴って作庭された新しい庭です。置かれた石が九つしかないのに「十の庭」と呼ぶのは、見る人の心にもう一つの石(意志)が存在するからだそうです。「十」を「つなし」と読ませるのは数字の一から九までは「ひとつ・ふたつ」と「つ」がつくのに「十」はつかないからですって。余談ですが、日本語の数字の読み方は「いち・に・さん」と「ひー・ふー・みー」があって、「ひとつ・ふたつ」は後者の変化形だと思います。バスのアナウンスを聞いていて、七条以外は「いちじょう・にじょう」と続くのに、七条だけは「ななじょう」なのが不思議でした。

20230314_095653

 10時少し前に戸が開けられました。受付の方をはじめ、このお寺の方はどなたも善意の塊のような方ばかりです。キリシタン燈篭のことを尋ねたら、あとで丁寧に案内してくださいましたが、空いているうちに「佛涅槃図」を拝観したほうがいいと勧められて、お言葉に従いました。

 縦約10m、横約6mの等伯作「佛涅槃図」は、涅槃会館に展示され、1階と2階から拝観します。説明役の女性は毎年、お役を務められているそうで、私一人のために懇切丁寧に30分かけて説明してくださいました。その内容は、とても書き切れません。

R (4)nw

 等伯が61歳で家族や日蓮宗の僧侶の供養のために描いた大作を独占できた貴重な時間は筆舌に尽くしがたいものでした。解説の方のお話では「あなたひとりだから、こっそり言うけど、複製とは大違い」だそうです。2階の「大涅槃図」の裏側に書かれた文字が少し見え場所に案内してくださったり、すっかりお世話になりました。

IMG_20230324130443

 動物の悲しみの表現に見入ってしましました。黒田泰三著『長谷川等伯 生涯と作品』58ページより

 11時には本法寺を去らなければなりません。もっと見ていたいけれど、お庭も見たいし、一階に下りました。1階には20人ほどおられましたから、朝一番がお勧めです。

  またしても余談ですが、映画「散り椿」には長谷川等伯の絵が3点も使われています。まず榊原采女が城代家老と話し合う場面にボストン美術館蔵「龍虎図屏風」、田中屋の主人の寝所に承天閣美術館所蔵の「荻芒図屏風」、新藩主の邸に智積院蔵「松に秋草図」です。とくに手燭の灯りで浮かび上がった「荻芒図屏風」が妖しい美しさを放っていました。

 書院の東側から南に曲がる鍵形の「巴の庭」は、本阿弥光悦が作庭した室町期の書院風枯山水の影響を残す名庭です。

IMG_20230319173245

 江戸時代の図絵では三つの巴がはっきりと見てとれますが、現在は巴の形がわかりにくくなっています。

20230314_104108

 書院の縁側前に配された半円を二つ組み合わせて円形にした石は日蓮の「日」を表しています。

20230314_104112

 10枚の切り石で十角形を構成した蓮池は日蓮の「蓮」を表現していますが、この季節は蓮の姿はありません。

20230314_104116

20230314_104116-1

 東南の隅には枯滝石組(三尊石組)が配され、青石で流れる水を表現し、苔むした石橋が架かっています。

 「巴の庭」の向かい側の「蹲の庭」には、キリシタン燈篭ではないかと言われる織部燈篭と光悦の蹲居が置かれています。受付で質問したのを覚えていてくださって、声をかけていただきました。燈篭の下のほうに彫られているのはキリストだという説もあります。燈篭に気を取られてその後ろの蹲居を撮り損なって残念です。

20230314_104035

20230314_104035-1

 燈篭の後ろの苔むした長円形の蹲が「光悦の蹲」です。

20230314_104352-1


 本法寺は、「佛涅槃図」以外はどこも写真撮影可とおおらかです。心せわしく急いで写真を撮ったので、なんだかわからないものもありますが、とりあえずUPします。

20230314_104201

20230314_104233-1

 中庭の花手水に和みました。

20230314_104126

20230314_104131

20230314_104152

20230314_104220

 思いがけず明治から大正にかけて活躍した花鳥画の名手・渡邊省亭の花鳥図屏風を拝見できました。実力があるにもかかわらず、知名度はそれほど高くありませんが、端正な画風です。

20230314_104339

 帰りは近道を通ってバス停に3分で着き、予約した辻留のお弁当を受け取って姉宅に向かいました。心配していた天候にも恵まれ、ほぼ予定をこなすことができて喜んでいます。

歩数 13892歩

R (4)myousinji

 山内図を再掲しました。東西を結ぶ道が見当たらず、大方丈付近まで戻らなければなりません。

20230313_151300

  頭上注意の渡り廊下を潜って北に向かい金牛院の前を左折します。

 壽聖院のお隣は天祥院です。山雪の「老梅図屏風」はアメリカのメトロポリタン美術館に行ってしまいました。

20230313_152224

20230313_152146

 拝観謝絶です。前庭だけ撮ってきました。

20230313_152251

  壽聖院の三門。右側に「石田三成一族菩提所」と刻んだ石柱が立っています。三成公ではないんですね。

20230313_152322

 またしても撮影禁止です。看板が多い!

IMG_20230319172222

IMG_20230319172722

 本堂は令和2年(2020)に400年ぶりの大改修を行ったので、瓦などピカピカです。壽聖院は慶長4年(1599)に石田三成が父の正継の菩提寺として伯蒲慧稜を迎えて創建したもので、当初は現在の敷地の4倍を有し、周囲に堀と土塀をめぐらせた広大な敷地に金箔瓦を載せた堂宇が建つて壮麗をきわめていたそうです。ところが翌年の関ヶ原の合戦で三成は敗れて六条河原で処刑され、父正継も佐和山城で自刃し、寿聖院も解体されました。壽聖院という寺号は、正継の法名である壽聖院殿から名づけられました。
 特別公開のガイドさんは高齢の方が多かったのですが、ここは溌溂とした若い男女が熱のこもった解説をしてくださいました。ただし、私にはあまり興味のない内容で、ここはパスでもよかったかもしれません。内緒ですが。

 追記 壽聖院がTwitterに「京の冬の旅は多くの皆様にご拝観いただきありがとうございました。また学生ガイド協会さんの素晴らしいガイドのおかげでより楽しんでいただくことができたかと思います。関係者の皆様含め本当にありがとうございました!」とコメントされていました。パスでもよかったなどと言って、反省しています。

 ポイント①は正継像(複製)など文化財です。土佐光信もしくはその弟子の作だそうで、真筆は重要文化財に指定されています。同じ部屋に三成が朝鮮出兵の際に持ち帰った袈裟を伯蒲禅師に贈ったときの自筆の書状、三成の長男の日記である『霊牌日鑑』などが展示されていました。三成の長男・重家は佐和山城から壽聖院に逃れ、壽聖院開祖の伯蒲禅師が家康に助命を嘆願します。その後、済院宗亨の名をいただき、壽聖院三世住職となって、関ヶ原の合戦後解体されていた壽聖院を龍安寺の末寺の材を集めて再建しました。家康は信長や秀吉に比べて優しいですね。ガイドさんが三成と秀吉の出会いについて「三献の茶」の逸話が有名だが、『霊牌日鑑』では違う日時と場所になっていると言われていました。

IMG_20230319172909

 「石田正継像」(重要文化財・複製)。正継が伯蒲慧稜に求めた讃があります。

IMG_20230320093316

 伯蒲禅師に贈った自筆の書状。

 ポイント②は、伝狩野永徳設計の庭です。本堂の前に広がる庭園は狩野永徳が設計したと伝えられ、その景観は桃山時代から変わっていないそうです。瓢箪池は主君の秀吉の馬印である瓢箪を模して造られています。

IMG_20230320093148


 ポイント③は、村林由貴氏が描いた襖絵です。これはもう私が何か言える世界ではありません。天才なのでしょうね。

point_637ca88288176

 技術・素材の継承や若手芸術家の育成を目指すプロジェクトで選ばれた村林由貴氏の書院襖絵。奥は「風浪双鯉図」、手前は「春秋豊楽図」です。寺での住み込み生活や修行経験を重ね、禅の理解を深めながら構想・制作に挑みました。村林氏は退蔵院の襖絵も制作されています。

 山雪の襖絵を所蔵する天球院の前を通って、北総門に向かいました。北総門は、かつての寿聖院の三門だそうです。

20230313_155541

 狩野山楽・山雪の襖絵と板戸絵を152面所蔵する天球院の次回の特別公開は絶対に行こうと思っていますが・・・。

20230313_155549

 北総門前からバスでホテルに戻りました。悪い癖で、旅に出ると欠食児童(実は老婆)になってしまいますので、今回は2食付きで予約しました。ホテル2Fの僧伽小野の本店・一秀庵は福岡の名店だそうですが、1泊目は2人、2泊目は1人しかお客さんがいないので心配していたら、朝食は満席・行列でした。

 1泊目の夕食は海鮮会席をお願いしました。

20230312_181121
 
 小鉢の茄子の煮物が美味でした。

20230312_181606

 ドリンクは必ず注文ということで、京都の銘酒飲み比べをお願いしたら、多すぎ。八寸と茶碗蒸しの次に運ばれた海鮮丼は本部福岡直送の海の幸を使っています。

320x320_square_de68b45ce0a4cf46d7b60ad3c8a0059e IMG_20210321_121010

 2日目は料理長こだわりの「うな重」を選んだら、30分かかるとおっしゃいます。

20230313_181547

 ドリンクは昨日の飲み比べでいちばん好みだった「聚楽第」をグラスで。受け皿に大量にこぼれるサービスで戸惑いました。受け皿のお酒はどうするのがマナーかわからなくて、放置。生麩田楽がお肴です。

20230313_183701


 朝食はセットメニューで、メインは3種類から選びます。一日目は鯛と野菜の天ぷらのお茶漬け、2日目はちらし寿司にしました。

640x640_rect_152257094

o1080081014922520847 OIPsouka1

 結局、高島屋経由で手に入れた辻留のお弁当が最高でした。いつも粗食に甘んじている身には、久しぶりの贅沢です。カラスミなんて、いつ賞味したか忘れました。

R (4)tujitome

ダウンロードtujitome


 歩数 18572歩

20230313_150023


 前日訪ねた知恩院の方丈庭園を作庭した伝玉淵坊の庭園と狩野山雪の襖絵がある桂春院は必見だと思っていました。撮影可にも関わらず、あまりにも不出来な写真ばかりで、パンフレットと公式HPの写真を加えさせていただきました。

IMG_20230318182956

 桂春院は慶長3年(1598)に織田信長の長男・織田信忠の次男・津田秀則(つまり信長の孫)によって見性院として創建されました。その後、美濃の源貞政が寛永9年(1632)に50年忌を迎える亡父の追善供養のために現在の方丈、庫裡、書院、茶室等の建物を建て、両親の法名から桂と春をとって桂春院と名を改めます。

20230313_145905

20230313_143751

 方丈は寛永8年(1631)に建立されました。内部中央に仏間と室中の間(住持の居室と客殿を兼ね、一般寺院の本堂の役割を果たす)を設け、正面に本尊薬師如来像を安置しています。最大の見どころはすべての襖絵を狩野山楽の弟子狩野山雪が描いていることです。ありがたいことに方丈前に長椅子が置かれていたので、しばし足を休め、気力を回復して拝観しました。こういうお心遣いは本当に嬉しいです。廊下で拝観を終えた青年とすれ違っただけで、境内を一人で占拠しました。

20230313_145127

 狩野山雪については辻惟雄著『奇想の系譜』に大きな影響を受け、2013年に京都国立博物館で開催された特別展覧会「狩野山楽・山雪」を姉とともに拝見できたのは一生の思い出です。辻氏が「桃山の巨木の痙攣」と評した山楽の作品の多くは妙心寺塔頭の天祥院と天球院が所蔵していますが、なかなか拝観できる機会が得られません。
 山雪作と伝えられる水墨画は、室中の間に「山水」「枯木に鴉」「芦に泊まり船」「仏宇人物雪の図」、東の間に「芦原に落雁」「雪竹に茅屋の図」、西の間に「老松に滝根笹」がありますが、傷みもあってかなり朧です。

OIPasinitomaribune

 山雪筆「芦に泊まり船」

 最も印象的なのは、室中の間の「金碧松三日月」です。もとは仏壇背後の壁に貼り付けられていた画を襖に改装したもので、下から灯りで照らすと、煌々と月が光ります。

imagesansetu

 (桂春院公式HPより)

OIPkeisyunin2

 桂春院の四つの庭園は、修行に入った人が悟りを開くまでを表しているそうですが、最初に出会うのは「清浄の庭」です。

IMG_20230319100538

20230313_145655

20230313_145646

20230313_145640

 「清浄の庭」は、方丈北側の坪庭です。井筒のそばの立石で枯滝石組が組まれ、滝の響き、白砂の渓流が音を立てて流れている思いがするように、つねに心身の塵垢を洗い清めて清浄無垢にしたいという願いが込められているそうです。大徳寺の大仙院のように花頭窓の下を潜って次の「侘の庭」とつながっています。

IMG_20230319101027

 「侘の庭」は、書院前庭から飛石づたいに茶室「既白庵(非公開)」に通じる露地庭です。

20230313_144242

 露地は上の写真右奥の「梅軒門」と「猿戸」によって、内露地と外露地に分かれます。どちらも狭い空間ですが、少しの無駄もなく空間を利用しているとパンフレットに書いてありました。

IMG_20230319100319

 「真如の庭」は、方丈南側の崖を躑躅の大刈込で覆い、その向こうは一段低くなって楓が植えられています。一面の杉苔に小さい庭石を七・五・三風に配しているのは十五夜の満月(悟り)を表現しているという解説は、私には難解です。

20230313_144153

20230313_144341

1659343946kousiki

 躑躅の大刈込を下から写すとこうなります。青もみじのころに再訪したいものです。(桂春院公式HPより)

IMG_20230319101203

 方丈東側の左右の築山に、十六羅漢石、中央の礎石を坐禅石に見立てて、仙郷に遊ぶような趣があるとのことです。坐禅石はどれでしょう?

 履物が用意されていて、苑路を歩くことができます。

20230313_144540

20230313_144608

20230313_144736

 ここからUターン。

20230313_144942

 方丈に戻って、壽聖院に向かいます。門の前で両手に杖を持った重度の身障者の方に出会いました。懸命に庭園を巡られるお姿に、足腰が・・などと言ってはいられないと思いました。

 下記のサイトは、かかわりのある方のことやお茶室などについて、非常に詳しいです。

 桂春院: 京都はんなり旅 (seesaa.net)

3月13日 午後

 妙心寺に南総門から入るのは初めてです。三玄院の方の「これからお天気、だんだん良くなりますよ」というご託宣は的中して青空になりました。

20230313_133912

R (4)myousinji

 南総門も北総門もバス停から近くて公共交通利用者にとっては便利ですが、下校する生徒さんや自転車、自動車が行きかいますので、少し神経を使わなければならないのは大徳寺との違いです。特別公開の玉鳳院と寿聖院に加えて通年公開の桂春院を加えました。退蔵院や法堂・大方丈などは近年に拝観済みです。
 
20230313_134313

 威風堂々たる三門には圧倒されます。応仁の乱後、亀年禅愉が住持のときに造営された門に代わって、現在の三門は鉄山宗鈍が家康の支援を得て慶長4年(1599)に建てられました。五間三戸二階二重門、入母屋造りで、左右に山廊(上層への登り口を覆う建物)がついた禅宗様建築(唐様建築)の建物です。京都の禅宗寺院では東福寺三門、大徳寺三門についで古い三門建築で、重要文化財に指定されています。高さ16mですから昨日の知恩院の24mよりは小ぶりですが、朱塗りのせいもあって、重厚な知恩院の三門と比べて華やかな印象です。

20230313_134404

 浴室(明智風呂)は以前に拝観したので素通りです。

20230313_135124

myoshinji2

 玉鳳院に着きました。特別公開の神社仏閣はすべて撮影禁止なのが残念です。

IMG_20230318142154

 建武4年(1337)に創建された妙心寺は、花園法皇の離宮を禅寺に改めたのが起こりで、玉鳳院は法皇が伽藍のそばに建てた山内最古の塔頭寺院です。法皇と妙心寺の開山・関山慧玄がここで問答を行い禅の教えを深めたと言われています。両統迭立の時代に12歳で即位した持明院統の花園天皇の皇太子は大覚寺統の後醍醐天皇で、南北朝の争乱でお心を痛められたことでしょう。
 檜皮葺屋根の寝殿風の方丈は、明暦2年(1656)に仙宮(上皇の御所)を模して建てられましたが、屋根の葺き替え工事の最中で、白砂の庭園にブルーシートが敷かれ大量の檜皮が置かれていたのは残念でした。
 特別公開の寺院はいずこもポイントごとにガイドさんが配置されています。玉鳳院では、方丈、渡廊下、開山堂の三か所で詳しい説明をいただきました。会期も終わりに近づいて、よどみない説明です。方丈は、花園法皇の木像を祀る昭堂があること、離宮だった名残で落ち縁(部屋より一段下がった高さで作られる濡れ縁)と高欄があること、花園法皇の玉座がある「拈華室」が存在することが特徴です。
81306024005749


 今回は特別に「拈華室」の花園法皇の玉座が公開されています。「拈華」は花を軽くつまむことで、開山堂「微笑庵」と対になって「微笑拈華」です。

 微笑拈華 釈迦が霊鷲山りょうじゅせんで説法した際、花をひねり大衆に示したところ、だれにもその意味がわからなかったが、ただ摩訶迦葉まかかしょうだけが真意を知って微笑したという故事。そこで釈迦は彼にだけ仏教の真理を授けたといい、禅宗で、以心伝心で法を体得する妙を示すときの語。

20091129_IMG_S0337L

 
方丈の上間一の間「拈華室」の花園法皇の玉座を間近で拝観できました。

OIPgyokuhouinnhoujyou

 方丈の内部は狩野永真(安信)筆と伝わる「麒麟図」「竜図」「山水図」、伝狩野洞雲(益信)筆の「秋草図」など、各室ごとに異なった画題の襖絵で飾られています。

2981-1gyoku

IMG_20230318162401

IMG_20230318162517

 伝狩野永真(安信)筆の方丈襖絵「竜図」が「室中の間」を飾っています。

2981-4gyoku

 躍動感のある「麒麟図」。当時の麒麟はキリンとは異なる霊獣でした。


 方丈と渡り廊下で結ばれた開山堂「微笑庵」(重要文化財)は、開山・関山慧玄を祀る妙心寺山内最古の建物です。

IMG_20230318161553

 軒下の重厚な組物も見事な室町時代中期の唐様建物で、室内には常夜灯と常香盤(お香を長時間絶やさないで焚くための香炉)があります。お堂の前には珍しい形の妙心寺型石灯篭が据えられ、蘇鉄が植えられています。蘇鉄はまだ菰が巻かれていました。

R (4)tourou

 妙心寺型燈篭

 蓬莱式の庭園は渡り廊下を挟んで南北に分かれ、北側には枯滝や石組、関山慧玄がその傍らで立亡(立ったまま亡くなる尊い死に方)したという井戸(風水泉)などがあります。奥に秀吉の子・鶴松の霊屋(祥雲院殿)があるので、ぜひ見てくださいといわれましたが、足元が心配でご遠慮しました。 

gyokuho_8A4A8776

 南側には一面の白砂に松や敷石が配された庭園が広がっています。白砂の波は月に2度、6人がかりで丸一日かけて整地されるそうです。高欄の擬宝珠が優雅な雰囲気を醸しています。

IMG_20230318161906

 開山堂裏には武田信玄・勝頼の石塔、織田信長・信忠の石塔が残っています。

 ガイドさんに「唐門には、応仁の乱のときに打ち込まれた矢じりの跡があるから、帰りに見てね」と言われて行ってみました。普段は閉まっている檜皮葺きの唐門は絶賛工事中で開いていました。平唐門としては最古の四脚門で、重要文化財に指定されています。平唐門とは、屋根の流れ方向に入口がある「平入り」の唐門のことで、前回の旅で訪ねた醍醐寺・三宝院の国宝の唐門が代表例です。

20230313_142417 c2c85f53-s
 
 続いて桂春院を訪ねました。山内では北端に位置しているので、けっこう歩きます。

20230313_142746

 まだまだ先です。

20230313_142830

 東海庵もなかなか入れません。

20230313_143722

 たどり着きました。

 明日の姉宅訪問の「おもたせ」は紫野和久傳で販売している3月上旬限定の「夜さくら」にしようとお店に寄ってみたら、最後の一箱がありました。「2階のお席は空いていますか」と尋ねると、「一席だけ」。いそいそと上がってランチをいただきました。前回と同じ「五セット」です。「五」は「いつつ」と読みます。

R (4)itutu

20230313_115852

20230313_121021

640x640_rect_6e7f283d54b0ad5c8d0d5c0de431b599

R (4)yorusakura

1035

 「夜さくら」は姉宅でいただいて、とても美味しかったのですが、要冷蔵のため持ち歩くのは大変でした。

 大徳寺前バス停から205系統のバスに乗って、北野白梅町で下車。地蔵院(椿寺)はバスの進行方向に少し歩いて最初の角を左折すると目の前です。徒歩1分は正確でした。

81xEqlbSpcL._SS500_

 2019年に映画「散り椿」を観たときから、いつかはと思っていた場所です。原作は葉室麟の同名の小説で、藩を追われて浪人となった瓜生新兵衛が妻の篠とともに身を隠しているのが京都の地蔵院という設定で、前庭の五色八重散椿が題名の由来になりました。一般的に椿は花の形のまま落花するので、武士は首が落ちるのを連想させる椿を好まないというのは作り話だそうです。それはともかく、花びらが一枚ずつはらはらと散る椿を「散り椿」と呼んでいます。大徳寺から妙心寺に行く途中で寄れることがわかって、そそくさと予定に加えました。
 小説の表紙を飾る絵は速水御舟の「名樹散椿」の一部です。御舟が35歳だった昭和4年(1929)の作品で、地蔵院の樹齢400年を超えると言われる椿を写生していますが、文禄の役で朝鮮に渡った加藤清正が蔚山城から持ち帰り、北野の大茶会のときに秀吉が地蔵院に献木したという名樹は昭和58年(1983)に枯れてしまい、いま見ることができるのは樹齢120年の二世ですから、御舟の絵で偲ぶしかありません。翌日会った姉にこの話をしたら、姉は枯れる前の満開の椿を見たことがあるそうです。「名樹散椿」は2019年6月の山種術美術館の展覧会で拝見し、絵にちなんだお菓子もいただいてきました。

cf5b506d951a8f2c3ef3053adb792532-scaled

66bb42b848c32bbd91c7a63007423fe2-644x483

 「名樹散椿」には、紅、白、桃色、紅白しぼりの見事な椿が描かれています。映画では地蔵院の散り椿を見て、いつか故郷の散り椿を見たいと言いながら果たせずに他界した妻のために帰郷し、 友と信じていた人物と激しく刃を交える場面に散り椿が登場しました。物好きにもロケ地を訪ねたら、撮影時は一輪も咲いていなくて、椿の花は人の手で一つ一つ枝に付けたそうです。

982373ab

 映画の散り椿


20230313_125229

Jizo-in_Tsubakidera140526NI4

 地蔵院は神亀3年(726)に行基が聖武天皇の勅願で摂津の昆陽池の畔に建立したのが始まりと伝えられています。平安時代に衣笠山の南に移されますが、室町時代の明徳2年(1391)に起こった明徳の乱で焼失。その後、足利義満が金閣寺建立の際に余った建材で再建し、さらに秀吉の命で現在の場所に移されました。当初は八宗兼学の寺院でしたが、寛文11年(1671)に浄土宗の寺院となり、前日に訪ねた知恩院の末寺となっています。本尊は五却思惟阿弥陀如来で、もとの本尊の地蔵菩薩は地蔵堂に移されています。

20230313_125301

20230313_125318

 書院前に植えられた「五色八重散椿」は、まだ蕾でした。咲いていたのは一色の椿です。これから行かれる予定の方、よろしくお願いいたします。

 ふと気づくと壁に境内図が貼ってあって、右下に小さな字で「キリシタンの墓」と書いてあります! 下調べが雑で想定外! 急いで地蔵堂の前から観音堂の裏の墓地の端まで行ってみました。

20230313_125350

20230313_125651

 キリシタンの墓は板碑型と蒲鉾型があって、地蔵院の場合は蒲鉾型の墓碑の正面を円状に刳り貫いたものを立てて手水鉢として使っていたので、正面に刻まれていたはずの十字架や霊名、帰天年月日などは失われています。京都で見つかったキリシタンの墓碑は20基ほどですが、ほとんどは博物館所蔵で、本来あった場所にあるのはここだけだそうです。いまは横置きにしてキリシタンの墓としてお祀りしています。京都埋蔵文化財研究所の資料によると、京都のキリシタン墓碑の分布は北野から西ノ京付近と東寺周辺に多いということですが、思いがけない出会いでした。

 蒲鉾形墓碑の一例を挙げておきます。

R (4)kiri

 長崎県南島原市川口之津町白浜の墓碑は小さいことから子どもの墓碑ではないかと言われていますが、十字架ははっきり残っています。

 北野白梅町バス停から西ノ京円町まで行って、大覚寺行きのバスに乗り換えると4分で妙心寺前に着きました。


3月13日(月)

 雨の予報で心配していましたが、目が覚めると雨はやんでいました。大徳寺の三玄院に10時の予約を入れているので、9時過ぎにホテルを出て、四条河原町のDのバス停から12系統の市バスに乗車。所要時間は32分です。

20230313_094725

20230313_095505

 三玄院の前まで行くと、すでに行列ができていました。予約した人は右側に、予約していない人は左側に並び、もちろん予約者優先です。特別公開の寺院で予約をチェックされたのは三玄院だけでした。石田三成が人気があるのか、それとも他の寺院と違って、この日が最終日だったからなのか、よくわかりません。 門前までタクシーで来られた方がいたので、まだまだ来られるなとちょっと安心しました。雨がやんだあと、気温がぐんぐん下がったうえ、風が強くて、軽装で来たのが悔やまれます。

20230313_102255

20230313_102250

 庭園も含めて撮影禁止ですから、門の隙間から恐る恐る一枚。あとはパンフレット等からスキャンしました。なぜ撮影禁止なのか、よくわかりません。

IMG_20230317102214 IMG_20230317102331

 三玄院は、天正17年(1589)に浅野幸長、石田三成、森忠政(森蘭丸の弟)の3武将が大徳寺第111世・春屋宗園和尚を開祖として創建した大徳寺の塔頭寺院です。書家としても知られた近衛信尹や黒田長政、古田織部、小堀遠州などの武将、千利休の孫・千宗旦や絵師の長谷川等伯など多くの人々が春屋和尚に禅を学びました。

ダウンロードsangenin

 方丈(本堂)の仏間には、春屋和尚の木像、本尊・釈迦如来を安置し、石田三成の位牌のほか後陽成天皇、近衛信尹、浅野幸長、森蘭丸や弟の忠政も祀られています。

 方丈の襖絵は、江戸時代の絵師・原在中が描きました。開祖の春屋和尚を祀る「室中の間」に描かれた、どこから見ても視線の合う「八方睨みの虎」は、波の中に浮かぶ鱗模様のみで表現された龍とあわせて「龍虎図」となっています。龍虎はともに仏法を護持する霊獣です。在中の作品をこんなにまとめて見せていただいたのは初めてです。

IMG_20230317104549

 「上間一の間」には狩野派の絵師に倣って描いた「猿猴図」があります。

IMG_20230317104735

 方丈前の「昨雲庭」は、植え込みと大きな立石で深山から流れ出す滝を表し、苔や名石の島を配した白砂で広がる大海を表現した枯山水庭園です。「昨雲」とは、春屋和尚の言う「迷いの跡もとどめない人間本来の清浄な姿」を意味しています。庭の中央にが量感のあるまぐろ石、滝石付近には瀬田川虎石や吉野赤石などが深く埋まっています。滝壺には水泡を表すような珪灰石が使われていますが、重さ6トンの大きな石が地上に少し顔を出だしているだけです。大徳寺の法堂や松を取り込んだ借景が印象的でした。

IMG_20230317104424

 方丈北側に江戸時代に造られ、明治期に移築された古田織部好みの茶室「篁庵」がありますが、内部は非公開です。

IMG_20230317104922

 30分弱で拝観を終え、雨上がりの境内を歩いて芳春院に向かいました。芳春院は大徳寺の塔頭の中でもいちばん北に位置しています。京都駅の雑踏が信じられないほど、境内は静寂に満ちています。

Rdaitokuji
芳春院は大徳寺の境内で最も北に位置する塔頭で、通常は非公開であるが回は秋の特別公開を利用院は寺の境内で最も北に位置する塔頭で常は非公開であるが、今回は秋の特別公開を利用して拝観する。
20230313_102650

20230313_110342


  芳春院の予約は11時ですが、長い参道を歩いて少し早めに行ったら、すぐ入れました。

20230313_103241

20230313_110317

 中門に着きました。

20230313_103247

20230313_110102

20230313_110139

 庫裏の前にちょっと変わった石造物がありました。

IMG_20230317154929

 芳春院は慶長13年(1608)に加賀藩主・前田利家の正室・まつが玉室宗珀を開祖として創建した前田家の菩提寺で、まつの法名から寺号がつけられました。建物のあちこちに前田家の家紋が施されています。解説係の方が前田家の加賀梅鉢紋が天神様の星梅鉢紋と似ているのは、菅原道真の子孫を称しているからだと力説されていました。

hoshiumebachi-b
星梅鉢紋

kagaumebachi-b



加賀梅鉢紋

128994-1

20091129_IMG_C5182L

 本堂には本尊の釈迦如来像や玉室宗珀の木像、まつの木像、前田家歴代の位牌が祀られています。本堂襖絵は、動物画の名手とされる日本画家・竹内浩一氏が10年の歳月をかけて2016年に完成した水墨画で、「下間之間」は、琵琶湖の鯰を描いたという「瓢」、「室中之間」は雨の中の鳥を表した「片しぐれ」や、木から木へ飛び移る猿を描いた「啼く」、「上間之間」は「杜」と題した狐や蛇の姿が、淡い墨で表現されています。現代の日本画に全く疎かったので、こういう世界があるのを知ったのはいい機会だったと思います。

images (1)
 檜の林を飛び映る猿を描いた「啼く」

ダウンロードmori

 枝垂れ柳と狐を描いた「杜」

 本堂南に広がる枯山水庭園「花岸庭」は、白砂が大海を表し、蓬莱島を表す石組へ向かう舟石が据えられています。足立美術館の庭園で有名な中根金作が復元した庭ですが、以前は芳春院が好きだった桔梗が一面に植えられていたそうです。

R (4)

 本堂北側の庭園は元和3年(1617)に築かれた「飽雲池」を中心とする楼閣山水庭園で、小堀遠州作と伝えていますが、確証はありません。「飽雲池」の奥に建つ二重の楼閣「呑湖閣」は、閣上から比叡山を東に臨み、その向こうに広がる琵琶湖の水を呑み干すという意をこめて名づけられました。現在の建物は文化元年(1804)に再建されたもので、上層部に前田家の先祖とされる菅原道真を祀り、下層部には玉室和尚の師・春屋宗園の木像や檀越である近衛家の位牌などを安置しています。
 正直な感想を言わせていただくと、この庭園はどことなく雑然としていて、落ち着きませんでした。参道に信楽焼の狸が置かれていたりして、妙なる調和とはいかなかったのが残念です。

IMG_20230317154702

 「呑湖閣」の内部は非公開で、「飽雲池」に架かる「打月橋」も渡れませんでした。

20230313_110447

 芳春院に隣接する敷地に、室町時代に創建された龍泉庵がありました。明治時代(1876)に芳春院と合併しますが、その後荒廃して雑木林となっていた場所を盆栽庭園として整備して2021年3月に開園されています。とくに盆栽に凝っていないので、スルーしました。 

6085372d992fd


20230313_111252

 竹林を眺めながら大徳寺前のバス停に戻りました。じ手法である。単に自然の雄大さを表現すると白砂の大海に対して陸地を表わす苔地の曲線が単調なものとなってしまう。二次元的には小さな入り江状の部分を何箇所か設け、苔地全体に緩やかな三次元的な動きを与えることで女性的な柔らかさが表われたと思う。また南庭正面に中門がないために、軸線や対象性を必要としない庭となっていること。さらには平面的で丸みを帯びた石を多く用いたことなどがこの庭の印象を深めることとなっている。 本堂西庭は呑湖閣へのアプローチ空間となっている。また飽雲池へ注ぐ水も西庭の西南から採っていることが分かる。ここには北庭の要素も現れているものの、南庭と結ぶために表現過多となっていない点が好感を持てる。


IMG_20230316174217

   三門とともに国宝に指定されている御影堂から渡廊下で結ばれた集会堂の隣が方丈です。係の方の解説を聞きながら大方丈・小方丈・方丈庭園を拝観しました。建物内は撮影禁止です。

hojo_teien_map

 寛永3年(1641)に徳川三大将軍家光が建立した大方丈は書院造りの形式で、鶴の間を中心に、「上・中・下段の間」「梅の間」「柳の間」「鶯の」「菊の間」「竹の間」の8室があり、狩野派の襖絵で飾られています。撮影禁止のため、以下の襖絵はHPと購入したパンフレットからコピーしました。

DSC_0916turunoma

 「鶴の間」の金地に鶴を描いた「松鶴図」は狩野探幽の実弟の狩野尚信筆で、集会堂と御影堂の修復工事のために外されていた襖絵8面が8年ぶりに大方丈に戻ってきました。「鶴の間」は大方丈では最大の部屋で54畳です。

DSC_7106senninnnoma

 「下段の間」から「中段の間」「上段の間」が続いています。

hojo_img02

 「上段の間」は横から見せていただけます。大方丈は将軍参拝時の座所として用いられることを想定して造られ、「上段の間」には武者隠しがあります。 

img_wonder04

 「菊の間」の襖絵は、雀があまりにも上手に描かれていたため、命が宿って絵から抜け出して飛び去ったという言い伝えのある「抜け雀」を含んでいます。ご親切に廊下に抜け出す前(想定)と後の絵の複製が飾られていました。

 大方丈の北東に位置する小方丈は、大方丈と同時期に建てられました。私的な空間として使用されたため仏間は設けず、大方丈と対照的に水墨画で飾られた「上・下段の間(雪景の間)」「雪中山水の間」「蘭亭の間」「花鳥の間」「羅漢の間」の6室があります。

hojo_img08

 「上段の間」を拝見してから玄関に戻って、方丈庭園を拝観しました。

20230312_145647

 方丈庭園入口前の大理石製仏足石は、いつごろの作でしょうか? 仏足石の多くは平置きにしているのに、立ててあるのが特徴です。

20230312_144058

20230312_143933

20230312_143939

 方丈の玄関から庭園に下りると、正面に建つ唐門(勅使門)は、天皇・将軍や勅使だけに開かれます。後陽成天皇の第八皇子・良純法親王が初代の門跡となった門跡寺院の格式を誇っています。

20230312_143913

 京都の街並みを一望できる山亭庭園は、非公開です。

20230312_143919

 方丈庭園は、大方丈から小方丈へ「L」字形に広がる心字池の南池、小方丈前の北池の池泉庭園、小方丈前の枯山水庭園の三つで構成されています。入口付近の石組の苔はしばらくたつと鮮やかな色になるでしょう。小堀遠州の弟子・僧玉淵の作庭と伝えられていますが、次の日に訪ねた妙心寺塔頭桂春院の庭園も玉淵作庭だそうです。

20230312_144133

 大方丈前の南池の石組と燈篭が見事です。

20230312_144205

 慈鎮(慈円)が座禅を組んだ石と伝えています。慈円は法然や親鸞を比叡山から庇護した天台座主で、『愚管抄』の著者としても知られています。昨年の大河ドラマにも登場していました。もとは三門の前にありましたが、天和年間(1681~1684)に現在地に移され、庭園の庭石になりました。

 20230312_144248

  ここから北池です。

20230312_144215

 小方丈前の北池にどっしりと置かれた巨石が存在感を漂わせています。

20230312_144221

20230312_145134

20230312_144346

 すっきりとした燈篭と石橋が調和した美しい庭園です。園路が平坦で歩きやすいのはありがたいことでした。
 さらに歩みを進めると枯山水の「二十五菩薩の庭」が広がります。知恩院所有の国宝「阿弥陀如来二十五菩薩来迎図」をもとにした庭で、臨終のとき念仏を称えれば阿弥陀如来と二十五菩薩が浄土へ迎えてくださる様子を作庭しています。配置された25個の石は二十五菩薩を、植え込みは来迎雲を表現しているという解説がありました。

20230312_144435

20230312_145055

20230312_144512

20230312_145003

 突き当りに権現堂が建っています。
 
20230312_144620

20230312_144911

 徳川家康、秀忠、家光の三代を祀り、徳川三代の位牌と肖像画を収めています。

20230312_144658

 茶室「葵庵」にも馬酔木が咲いていました。権現、葵となると、「どうする家康」ではなくて「こうした家康」です。

20230312_144716

 この燈篭、ユニークですね。

20230312_144806

 権現堂でUターンして、帰途につきました。

20230312_145353

 左が大方丈、奥が小方丈です。

20230312_145417

20230312_145636

 大方丈の前を通ると、襖絵の解説が聞こえてきました。

 御影堂の前のベンチで休憩していたら、警備員の方から「シャトルバスに乗られますか?」と声をかけていただきました。三門前に停車しているバスに連絡してくださって、楽々と帰ることができて感謝です。気がつきませんでしたが、行きもシャトルバスが利用できます。

20230312_154019

 ブルーの車がシャトルバスです。ここで待機しておられます。

20230312_154242

 三門前から新門を結ぶ御影道は、ところどころにベンチがあって、優しい道です。白壁の前に植えられていたのはクリスマスローズでした。

20230312_154621 20230312_154625

 御影道の傍らに樹齢400年のムクロジが根を張っていました。

20230312_155022

 新門の前を右折して知恩院前バス停で203系統のバスに乗り、四条河原町のホテルに向かいました。2泊したのは1月の旅で利用した三井ガーデンホテル京都河原町浄教寺です。

歩数 12551歩


3月12日(日)

  
このところ関西方面に向かうときは中央線の混雑を避けて日曜の10時台の新幹線に決めています。京都駅のバリアフリー事情もわかりました。12時過ぎに京都駅に着いて、まず訪ねたのは知恩院です。記憶もおぼろな幼いころ、なぜか父と一緒に知恩院に行ったことがあります。実家の宗旨が浄土宗だったことも関係しているのかもしれませんが、父と三門の前の石段を登ったことは覚えています。小学校一年生の12月に実母が亡くなり、翌年の10月に再婚した父にはどこか埋めきれない思いが残ってしまいましたが、「京の冬の旅 非公開文化財特別公開」に大方丈・小方丈・方丈庭園が含まれているのに背中を押されて、やっと知恩院に行く気になりました。
 市バスのD2乗り場には長い行列ができていましたが、一台やり過ごして先頭で乗って知恩院前で下車。白川に架かる古門前橋を渡ると、古門が建っています。

20230312_132644

20230312_132638

 古門から華頂道を突き当りまで歩くと、黒門に出会います。ここから入ったほうが足には優しいのですが、やはり三門からでないと・・・。

20230312_133413

 黒門前を右折して神宮道を通ると、いびつな石碑がありました。

20230312_133557

 石碑には右から「本願寺発祥之地 蓮如上人御誕生之地 親鸞聖人旧御廟所  元大谷崇泰院」と書いてあります。親鸞聖人は、法然の浄土宗を発展させた浄土真宗を開き、死後大谷に埋葬されたのち、末娘によってこの地に建てられた小さな廟堂に移され「本願寺」発祥の地となりました。蓮如上人は親鸞聖人から200年後、精力的に布教を行い浄土真宗を日本一の教団に成長させた方ですが、この地で生まれています。

 ほどなく80年前に父と石段を登った三門(三解脱門の略)見えてきました。元和7年(1621)に徳川2代将軍秀忠の命で建立された三門は、禅宗の三門形式が浄土宗に取り入れられた最初の例で、入母屋造本瓦葺、高さ24mの我が国最大級の二重門です。

20230312_154042

 よせばいいのに、手すりがなく、段差の厳しい三門の石段を必死で登って、体力を消耗しました。右側に楽な手すり付きの石段がありますし、もっと楽なルートがあることがあとでわかりました。

IMG_20230316174507

20230312_134519

 こちらが楽です。知恩院は浄土宗の総本山で、正式名は「華頂山知恩教院大谷寺」と言います。比叡山で修行したのち、浄土宗を開いた法然上人が開山し、本尊は法然上人像です。
 現在のような大寺院になったのは江戸時代に入ってからで、徳川家のもととなる松平氏が信仰していたため徳川家康をはじめ江戸幕府の援助によって勢力を拡大します。朝廷を牽制するため御所を見下ろす京都の高台に位置していると聞くと、その深謀遠慮に恐れ入りました。


IMG_20230316174017

 特別公開の予約の14時30分まで少し時間があるので、三門の右側に入口がある友禅苑を見せていただきました。友禅苑は染色技法を開発した宮崎友禅斎の生誕300年を記念して昭和29年(1954)に整備された庭園です。池泉式庭園と枯山水庭園で構成され、補陀落池には高村光太郎の父である高村光雲作の聖観音菩薩立像が立っています。

20230312_134757

 20230312_135423 

yuzenen-14_s

   池泉式庭園と枯山水庭園を隔てる門は禹門と名付けられています。登竜門と同じく出世につながる門だそうですが、潜るのがあまりにも遅すぎました。

20230312_134928

 門から苑内の東側に行くと、裏千家の茶人で実業家の大沢徳太郎の別邸の茶室を移した華麓庵が建っています。

20230312_135003

 20230312_134906

 琴流水と書いた立札が立っていました。琴流水は東山から白寿庵・華麓庵のそばを流れて補陀落池に注ぎます。

20230312_135017

 さらに奥に進むと、裏千家ゆかりの白寿庵が建っています。まだ桜の蕾は固く、馬酔木が目を和ませてくださいました。

20230312_135025

 枯山水の庭園は鹿野園と名付けられています。鹿野園のいちばん高い場所に、宮崎友禅斎の顕彰碑があります。友禅斎は能登の出身で、若い時に京に出て扇のデザイナーとして名を馳せますが、それが友禅の染色技法につながりました。のちに前田家に請われて加賀に行き、加賀友禅を開発します。京友禅は抽象的な柄が多いのに対して加賀友禅の柄は絵画的なのだそうです。三門のそばに居宅があった友禅斎を顕彰する場所としてふさわしいと思います。

20230312_135139

 鹿野園から三門が見えます。

20230312_135225

 京の街を見下ろす友禅斎坐像。

20230312_135236

 鹿野園を回りきらないうちに予約の時間が迫ってきたので、補陀落池に戻って、友禅苑をあとにしました。昭和の名園と謳われる庭園は桜や紅葉のころはさぞ美しいことでしょう。訪ねる人が少ない穴場です。

20230312_135411

 女坂を登って御影堂に向かいます。

20230312_140558

 日曜日なのに境内はひっそりしていました。

20230312_151754

 重要文化財の経堂を横目で見ながら国宝の御影堂の階段を登って、奥の方丈を目指します。

20230312_140552



 理性院を後にして、仁王門(西大門)から伽藍に入ります。長男が3歳ぐらいのころ、上醍醐まで山道を往復したことがありますが、もうそんなことは絶対に無理。当時は関西に住んでいて、お正月は近隣の社寺に参拝していましたが、門前に連なる露店でプラスチック製のお面を買うのが習わしでした。鉄腕アトムのお面を「おねん」と言って喜んでかぶっていた長男も還暦です。

keidai_subtop_2
20230111_113722

20230111_113908

20230111_113914

 仁王門は慶長10年(1605)に再建されました。紀伊の湯浅から金堂とともに移されますが、もとあったお寺は湯浅の勝楽寺か満願寺のどちらかだそうです。金剛力士像は平安後期の長承3年(1134)に仏師の勢増・仁増によって造立され、最初は南大門に安置されていました。

20230111_114505

 理性院から仁王門に向かう途中でもこういう光景を目にして、まさかの再開発? と訝しく思っていましたが、この立札でわかりました。本当に痛ましいことです。

20230111_114437

 気を取り直して、たくさんのお堂の中から国宝と重要文化財の建物に絞って拝観しました。

20230111_120645

 まず清瀧宮の外観から。立札に「本尊 准胝観音 本尊 如意輪観音」と書いてあって、これぞ本地垂迹説と思いました。上醍醐に祀られた清瀧権現の分身を永長2年(1097)に移したのが始まりだと醍醐寺のHPに書かれていますが、上記2観音は清瀧権現の本地仏です。仏教受容にあたって、仏が神の姿をとって仮に現れたのだ、たとえば天照大神は大日如来の仮の姿だという本地垂迹説が唱えられました。

20230111_114743

 応仁の乱で焼失した清瀧宮本殿は永正14年(1514)に再建され、重要文化財に指定されています。厳めしい石段の上の端正な社殿が清らかです。

20230111_114927

 右側は慶長4年(1599)に再建された拝殿です。

20230111_115142

 拝殿と本殿

20230111_114816

20230111_115911

 やはり見どころは京都府内では最古の建造物である五重塔ですよね。よくぞ応仁の乱の兵火で失われなかったものです。五重塔は承平元年(931)に醍醐天皇の冥福を祈るために発願されますが、諸事情で工事が停滞し、20年後の天暦5年(951)に完成します。総高38mのうち相輪部が12.8mあるので安定感のある姿になっています。

 内部は非公開で外観しか拝見できませんが、初重内部の両界曼荼羅と真言八祖を表した壁画も平安時代の絵画・建築彩色の遺品として貴重で、塔本体とは別に絵画として国宝に指定されています。

IMG_20230125154641
『原色日本の美術』密教寺院と貞観彫刻より

daigoji150206
20230111_115315

 醍醐寺は山上・山下の二伽藍に分かれていますが、山下伽藍は金堂(釈迦堂)を中心にして、60間の廻廊がめぐり、中門・鐘楼・経蔵を持つ奈良時代以来の左右対称的配置法を踏襲していました。ところが、永仁3年(1295)と文明2年(1470)の火災で焼失したので、豊臣秀吉が高野山の僧侶、木食応其に命じて再建に着手します。秀吉は完成を見ないで亡くなりますが、応其によって解体された湯浅の満願寺のお堂は、海路から淀川、その上流の山科川を経て醍醐寺に着き、慶長5年(1600)に130年ぶりに再建されたのが現在の金堂です。
 平安末期に現在の建物より小さな規模で建てられ、鎌倉時代後期に現在の規模に改造された建物は移築時に入母屋の屋根の形に改修されていますが、平安時代の密教本堂の建築様式は守られています。
 まだ拝観していないお堂はありますが、3時間以上、立ちっぱなし、歩きっぱなしで、疲れてしまいました。休みたくてもベンチなどどこにもありません。仁王門を出て霊宝館に向かい、今日こそランチを!

20230111_121143

 仁王門前の築地塀がいい雰囲気。

20230111_135653

 霊宝館の中にIKEAが経営するフレンチのカフェがあるのは調査済みです。まずお昼をいただいて、霊宝館をと思っていたら、閉館中で、仏像棟だけが拝観できるということでした。

20230111_121725

 霊宝館はお休みです。

20230111_122242
P000148B11
img10000824466-21664573509
 
 上のセットのメインをパスタに替えて、どれも美味しくいただきました。お味も女性スタッフの接客も申し分なかったのですが、ホテルでいただいた電子クーポンを使おうとしたら、トラブル発生。最後の確認がどうしてもできません。「詳しい人を呼びますから」となって、現れた男性がこの旅で出会った方の中で唯一残念でした。ため口、塩対応はいいのですが、全然詳しくありません。不機嫌オーラ満々、なにもできずにギブアップして去って行かれたあと、もう一人の女性スタッフがいとも簡単に解決してくださいました。こういう優秀な方は厚遇してください。紙クーポンはなくなって電子クーポン一択で、QRコードを読み取って、暗証番号を登録して、お店の番号を入力して、等々、時間がかかります。

20230111_134936

 最後に仏像棟でお宝を独占鑑賞。五大明王はじめ見事な仏像が無料で拝観できます。係りの女性の「ようお参り下さいました」という優しい挨拶を受けて、旅は終わりました。

20230111_140059
旧奈良街道

 門前から至近距離のバス停から京都駅まで京阪バスに乗ったら、これまでの人生で最高に行き届いた
運転手さんに出会いました。醍醐寺の桜については少しかかわりがあって、個人的に感慨があるので、できれば満開の時期に再訪したいのですが。


sec1-img1



追記 この日から2週間たった1月25日は大雪で拝観は中止になったそうです。天候・交通機関のトラブル・体調不良が旅の三大リスクだと思っていましたが、COVID-19の蔓延が加わって、ますます大変。今回の旅は桂離宮が残念でしたが、優しい方々に助けていただいて、恵まれた時間を過ごせました。まだ旅ができることを感謝して、与えられた命を大切にしたいと思います。次は3月を予定していますが、果たしてどうなりますか。

FnTD3iLaEAADB1r

 1月25日、仁王門は閉門(twitterから無断借用)


歩数 10586歩

 総門から仁王門に向かって参道を進み、仁王門の前の道を左折して120mほど歩くと左側に理性院の表門が建っています。

20230111_110222

 理性院は初公開だそうです。醍醐寺の僧・賢覚によって平安時代に開かれ、三宝院、金剛王院、無量寿院、報恩院とともに「醍醐五門跡」の一つと数えられていました。

20230111_110325

 表門から境内に入ると、正面奥に千体地蔵がずらりと並んでおられました。先代の住職が各地から集められたもので、制作年代もまちまちです。

20230111_110337

 千体地蔵の右側に中門が建っています。通常は拝観できるのは千体地蔵までで、中門から先は非公開です。南禅寺大方丈で意識するようになった門跡寺院の証がここにもあります。

20230111_110433

FmrXX5eacAAEMXc

 江戸時代に再建された本堂です。右近の橘、左近の桜ならぬ石の柵で囲まれた笹竹の植え込みが左右にあります。あとでお寺の方に尋ねたのですが、由来は不明で、檀家さんの寄進だそうです。なんだか気になります。

FnWVfDLaUAEWHRj

IMG_20230119161722

 本堂の左奥の客殿から上がらせていただきました。客殿も江戸時代に再建された建物で、床の間と附書院を備えた8畳の上段の間と10畳の間が2部屋、8畳の間が1部屋と4部屋が田の字型に並んでいます。待ち構えていた男性が「もっと前に来て、よくご覧ください。写真を撮ってもいいですよ」と言いながら、丁寧に説明してくださいました。客殿の建築年代は『義演准后日記』の元和元年(1617)10月5日条にある「理性院客殿立柱、広橋大納言馳走也」という記載が参考になります。

 初公開の最大の関心の的は客殿右奥の上段の間の障壁画です。青竹の結界の前まで近づいて拝見させていただきました。

20230111_111407

 障壁画は床の間正面の壁貼付1面、床両脇の縦長の壁貼付2面、床の間左に隣接する壁貼付1面、計4面が残っています。いずれも水墨が主体ですが、襖絵や屏風と違って壁に貼り付けられているので、あまり知られていませんでした。この障壁画の作者を突き止めた方の詳細な報告が非常に参考になりますので、全文のリンクを貼らせていただきました。研究者の情熱があふれていて、感動します。すべてかどうかは問題ですが、今回の旅で何かとご縁のあった狩野探幽が采女と呼ばれていた18歳のときの作品だと確認できる障壁画が見られる稀有の機会です。

特集 京都の初期障壁画 4 「醍醐寺理性院障壁画と狩野探幽」 | 京都市文化観光資源保護財団 (kyobunka.or.jp)

n118_13

 上掲論文には数葉の写真が添付されていますが、1枚だけ拝借しました。「琴棋書画図」の一部だというご説明があります。

 そのあと渡り廊下を通って本堂にお参りしました。秘仏の大元帥明王は80年に一度しか御開帳されません。次は2065年だそうで、無理に決まっています。秘仏の向かって右側の平安時代後期の一木造の「不動明王坐像」と左側の鎌倉時代の毘沙門天像は拝観できました。

risyouinhondou7334-4

risyouinFlCVnrZagAImPSZ

   両脇侍の童子像を従えたお不動さんです。

20230111_112624

 本堂脇の庭園です。

20230111_113133

 特別公開は終わっていますが、桜の時期は見事でしょうね。

20230111_113229

 総門の向かい側の光景に絶句しながら、伽藍に向かいました。仁王門に戻る道の中ほどに長尾天満宮の参道入り口があって、こちらのほうが参拝の方は多そうでした。仁王門と金堂を紀伊の湯浅から移築するさい変事が続いて、占ったところ菅原道真の怨霊だというので、勧請したと言われています。



 1泊目はホテル側の事情で朝食がいただけなかったのですが、2泊目はホテル2Fのレストラン「僧伽小野」で三種類のメニューから「青蓮」をいただきました。福岡県・糸島の「僧伽小野一秀庵」2号店です。今回の旅では最高の朝食でした。

03-1

 前列左から 穴子と牛蒡の玉子とじ ご飯のお供3種 小松菜のお浸し 胡麻豆腐
 中列左から 煎茶菜の菊花白和え 南瓜旨煮 子芋煮 牛蒡有馬煮 生麩田楽 出汁巻 銀杏 鱧の煮凝り 西京焼き 湯葉と九条葱の味噌汁
 後列左から 煎茶 薬膳ジャスミン茶のジュレ 茶碗蒸し 米飯

 鱧の煮凝りと煎茶が飛び切り美味でした。ただ、メインの穴子と牛蒡の玉子とじ以外はほぼ同じメニューですから、連泊すると飽きるかもしれません。

 最終日は特別拝観につられて醍醐寺を目指しました。四条河原町から醍醐寺まで京阪バスで乗り換えなしで行けるのはとても楽です。バス乗り場が複雑ですが、醍醐寺前を通る86系統か86B系統の大宅行きは下の地図の右下から発車します。ただし、本数は非常に少なくて、9時13分の次は10時59分です。9時13分の発のバスを待っているのは私だけでしたので少し心細い思いをしましたが、2分遅れてやってきたバスには数人の方が乗っていました。醍醐寺までは約40分です。乗り降りが楽で普段着の街の姿が見られるバス旅はこの程度なら苦になりません。

04cfa1f8 (1)-1

 20分ほど走ったところでバスの乗客は私だけになりました。バス停は総門のすぐそばです。

20230111_100123

20230111_100328

 突き当りが仁王門、左側が三宝院です。

20230111_100522

20230111_100737

 朝廷の使者を迎えるときだけ開かれる勅使門(唐門)です。この写真では判然としませんが、壁には門跡寺院の証の5本の筋が入っています。創建時は、門全体が黒の漆塗で菊と桐の四つの大きな紋には金箔が施されていました。平成22年7月に約1年半をかけて修復され、往時の壮麗な姿が蘇っています。 

IMG_20230119161204

 醍醐寺は平安前期の貞観6年(874)に聖宝尊師の努力で創建され、平安後期の永久3年(1115)に醍醐寺の本坊的な存在として三宝院が創建されました。応仁の乱で大きな被害を受けますが、豊臣秀吉と親交のあった義演准后(醍醐寺第80世座主)が秀吉によって催された「醍醐の花見」を契機に醍醐寺の復興を願い出て、秀吉・秀頼の援助のもとで復興します。表書院と唐門は国宝、それ以外の三宝院の玄関を含めて、ほぼすべての建物が重要文化財に指定されています。

  拝観受付から境内に入りましたが、公開エリアからは庭園と唐門が見られるだけで、書院に上がるには特別拝観券が必要です。1月7日から3月19日まで表書院拝観、弥勒堂内拝、黄金天目茶碗の展示などを含む特別拝観が行われています。

20230111_105235

 大玄関から上がって改めて特別拝観をお願いしました。特別拝観料は800円です。
map (1)sanpouin

IMG_20230119161620

 玄関から「表書院」の間に「葵の間」「秋草の間」「勅使の間」が並んでいます。「葵の間」からは「三宝院庭園」とは反対側のしっとりとした苔庭が見えます。

20230111_104424
絵林花鳥図です。桃山時代の作品で、長谷川等伯一派の作といわれています。
aoisanbo_02-1

 葵祭の行列を描いた襖絵のある「葵の間」です。※このサイズの写真はすべて公式HPからお借りしました。

akikusasanbo_03-1

 秋の七草が点在する襖絵のある「秋草の間」です。

cyokusisanbo_04-1
 
 「勅使の間」の襖絵「竹林花鳥図」は長谷川等伯一派の作品です。真撮影可だと知らなくて撮っていないので、室内の写真はHPからお借りしました。

 寝殿造の「表書院」に入ると、どんどん写真を撮ってSNS等に挙げてくださいという意味の立札がありましたので、遠慮なく撮らせていただきました。ただし、仏像や黄金の天目茶碗の撮影はNGです。表書院には下段・中段・上段の間がありますが、下段の間には石田幽汀(江戸時代中期の絵師で円山応挙・原在中らの師)が「孔雀と蘇鉄」を描き、奥に見える「上段・中段の間」には長谷川等伯一派が「四季の柳」や「山野の風景」を描いています。

sanbo_07-1
上段の間(HPより)

20230111_101637

20230111_101619
  
 腕もカメラも劣悪なうえ、逆光でまともな写真が撮れませんでした。写真の一部は、公式HPからお借りしています。軒端から水が滴っていたので、お寺の方に伺ったら、霜が解けているそうです。とても気さくな方で、楽しい会話ができました。

 三宝院庭園は安土桃山時代に豊臣秀吉が基本設計を行い、小堀遠州の弟子でもあった賢庭らによって作庭され、1624に完成しますが、秀吉は完成を見ずに亡くなっています。南禅寺・金地院の作庭にかかわった賢庭が三宝院庭園の作庭にも関与したことは依頼者の日記である『義演准后日記』の記録で明らかです。

sanbo_11-1

 藤戸石は天下を治める者が所有する石として室町時代から歴代の権力者によって引き継がれてきた天下の名石です。秀吉の命で聚楽第から運び込まれて庭園の中心に据えられ、左右に低い景石を置いて三尊組となっています。

sanbo_10-1

 賀茂の三石は、向かって左が賀茂川の流れの速いさま、中央が川の淀んだ状態、右の石が川の水が割れて砕け散る様子を表しています。

sanbo_14-1

 庭園の東南の隅に設けられた三段の滝です。植治・小川治兵衛は、無鄰菴の作庭にあたって、この滝を模しました。苔むした土橋は舟がくぐれるように小高くなっています。

20230111_101918

20230111_102024


 渡り廊下を通って「純浄観」に来ました。「純浄観」「奥宸殿」「本堂」は、公開される時期がかなり限られますから、貴重な機会でした。純浄観は「醍醐の花見」に際して醍醐山の中腹で使用した建物を移築したものと言われています。桜や紅葉の襖絵は平成に入って浜田泰介画伯が描きました。各部屋に詳しい解説をしてくださる方が配置されていますが、この少人数ではお気の毒です。

honndousanbo_16-1

 本堂外観

20230111_101958

 本堂脇の「酒づくしの庭」は、苔と白砂で瓢箪徳利と盃を表現しています。

20230111_102008

 以前は写真を撮るどころか近寄ることもできなかった本堂(弥勒堂)に入れて、快慶作の本尊弥勒菩薩にお参りできたのは幸運でした。本尊の弥勒菩薩は建久3年(1192)に勝賢僧正が後白河上皇追善のために造立したもので、向かって右に弘法大師(空海)、左に開祖理源大師(聖宝)を安置しています。美しい弥勒さまでした。

OIPmiroku

20230111_102806

sanbo_18-1

「奥宸殿」は安土桃山時代の慶長3年(1598)あるいは江戸時代初期に建立されたと言われています。三宝院座主の居住空間で、田の字型をしており、上座の間・武者隠の間・次の間などがあります。主室の上座の間には床・棚(違い棚・醍醐棚)・附書院などがあり、初期の狩野派の襖絵が描かれています。醍醐棚は修学院離宮の霞棚、桂離宮の桂棚とともに「天下の三大名棚」と称されています。

20230111_102802

 「奥宸殿」の東南に江戸末期の茶室「松月亭」が建っています。お茶室は本堂が非公開の日のみ公開されますので、拝観できませんでした。 
 
kyoto2201_2

 最後に「黄金天目茶碗」を拝見しました。義演が秀吉の病気平癒の加持祈祷を行ったことへの褒美として与えられたものだそうです。木製の器を金で覆ったものですが、いかにも秀吉らしい金ぴか趣味ですね。

 お茶碗を拝見したのは奥宸殿だったような気がしますが、すでに記憶が曖昧です。四隅に輪になった金具が付いた部屋だったので、金地院で同じような金具を蚊帳を吊るときに用いたという説明を受けたのを思い出しました。江戸時代になると庶民も蚊帳を用いたそうですが、奥宸殿の説明役の若い方は蚊帳というもの自体をご存じではないようでした。 

20230111_105459

 参道から見た唐門です。

20230111_105507

 参道はやはり閑散としています。参道を桜馬場と呼ぶのですね。秋月の杉の馬場を思い出します。


 金地院を出てランチをと思ったときは、どこも閉まっていました。予約しないと時間配分を誤ってしまいますが、予約はお二人様からというお店が多くて残念です。

20230110_151146


 2022年11月の旅から帰って2023年1月の京都の旅のプランを考えていたら、2022年11月26日の朝日新聞に「京都カルチャー 『川』が流れる自然風の庭園」という記事が掲載されました。それを読んで、すぐ公式HPの予約フォームから予約したのが無鄰菴です。山縣有朋の屋敷があった椿山荘は親戚の慶事や法事で何度か行きましたが、あまり好きになれない人物で、この記事を読まなかったら、行かなかったでしょう。枯山水に代表される「抽象画」だった庭園を「具象画」「風景画」に変えた画期的な庭園だと書いてあって、興味がわきました。

20230110_152332

20230110_152538

 南禅寺前の交差点から至近距離です。予約した16時には少し時間がありましたが、行ってみると、15時30分からの回に参加できるというので、一も二もなくお願いしたら、参加者は私を含めて2名です。これもオフシーズンだったからで、やはり事前予約したほうが確実に拝見できると思います。

IMG_20230119160724


 無鄰菴は7代目小川治兵衛が手がけた山縣有朋の別荘の庭園ですが、江戸時代から南禅寺の御用庭師で、南禅寺方丈の昭和の庭園を作庭した植彌加藤造園が管理されています。母屋で20分ほどご説明を承りました。山縣有朋は、作庭者に「東山を借景にすること」「流れのある庭にすること」「苔ではなく芝生を用いること」という三つの条件を示したそうです。桂離宮の造営にあたって、小堀遠州が「ご催促なきこと」「ご助言なきこと」「ご費用お構いなきこと」の三条件を出したというのと比べてしまいます。 山縣は「苔によっては面白くないから、私は断じて芝を栽る」と言ったものの、のちに湿度の高い環境でどうしても庭を覆う苔も受け入れたので、奥に進むと約50種の苔も見られます。20170517155152-1

 お話を伺ってから、日が暮れないうちにと庭に下りて最奥の三段の滝まで歩きました。

20230110_154718

 流れのある庭をという望みに応えて、従来の庭園によく見られる海に見立てた池ではなくて、琵琶湖疎水から水を引いて、せせらぎをつくりだしています。

20230110_154825

20230110_154910

 園路を進んでいくと芝生と苔が共生しています。

20230110_155008

 この沢飛石の往復はスリルがありました。長靴のほうがよさそうです。

20230110_155056

 クチナシがたくさん植えられていて、来年のきんとんづくりに実が欲しいなと思いました。

20230110_155129

 三段の滝まで来ました。旅程を組んだときは気が付かなかったのですが、三段の水落石を流れる水の姿が美しい滝石組は翌日訪ねた醍醐寺三宝院庭園の滝石組を小川治兵衛が模したしたものです。

20230110_155145

 また沢飛石を渡らないと帰れません。

20230110_155358

20230110_155415

20230110_155451

 馬酔木の咲くころに再訪したいけれど。

 喫茶券を買っていたので、カフェに戻りました。無鄰菴は明治27年(1894)~29年(1896)に造営され、庭園と母屋・洋館・茶室の三つの建物によって構成されています。日露戦争開戦前に伊藤博文らと外交方針について話し合った「無鄰菴会議」に使われた洋館は公開されていますが、時間切れです。写真を見て、どうしても見たいという気にならなかったし。

20230110_160647

 山縣がここから庭を眺めたという庭園カフェでいただいたお抹茶と無鄰菴オリジナルどら焼が激遅のランチがわりです。川沿いの仁王門通を「岡崎公園 美術館・平安神宮前」バス停まで歩いて、へとへとになってホテルに戻りました。

 帰宅してから重森三青著『日本の10大庭園』の第12章「日本庭園の展開」を読み返しています。

歩数 14632歩







  金地院という名前だけは以前から知っていました。家康のブレーンだった金地院崇伝(以心崇伝・本光国師)は高校の日本史の教科書にも登場します。豊臣秀頼に建立させた方広寺の鐘銘の「国家安康」「君臣豊楽」に言いがかりをつけた事件は有名ですが、三代の将軍に仕えて「武家諸法度」を起案したり、外交文書を書いたり、大活躍して「黒衣の宰相」の名をほしいままにした崇伝和尚は、応永年間に足利義持の帰依を得て京都の北山に開創した寺院を慶長年間に南禅寺塔頭に移して、現在に至っています。

 金地院の庭園については、重森三玲庭園美術館を訪ねたおり、館長さんがご推奨でしたので、いずれは訪ねようと思っていました。

20230110_150826

src_56496130

20230110_141843

IMG_20230119155617


 特別拝観中ですが、予約していません。とりあえず拝観受付を済ませて庭園を拝観しました。感動したのは明智光秀が寄進した明智門です。感動しすぎて門全体の写真を撮るのを忘れたので、Wikiの写真をお借りしました。天正10年(1582)に光秀が大徳寺に寄進した唐門は明治19年(1887)に移築され、明智門と呼ばれています。

20230110_142236

091128_Konchiin_Nanzenji_Kyoto_Japan04s3aketiWikiより

 敷居が高いお寺の門に苦労してきましたから、足腰に問題のある者に対するこの優しさには心から感謝します。

IMG_20230119160528

20230110_142241

 弁天池に沿って園路が巡っています。歩きやすい道でした。

20230110_142427

20230110_142435

20230110_142440


20230110_142609

 この先に東照宮が建っていますが、すでに1万歩を超して足腰が悲鳴をあげているので、引き返しました。結果的にはこれが大正解。

20230110_143118

20230110_143127

 さすがはシーズンオフ、出会った方はお一人だけです。ここで若い女性スタッフの方から「これから方丈の特別拝観を始めますが、参加されませんか」という願ってもないお声がけをしていただきました。事前予約が必要と諦めていたのですが、特別拝観料700円をお渡しすると、小走りでチケットを取りに行ってくださって、若い男性と二人で方丈を拝観できたのは、望外の幸せでした。

IMG_20230119160300

 上が一般の拝観券で、下が特別拝観券です。

20230110_143138

 最初に方丈の南庭の説明がありました。あちこちに小堀遠州作庭と伝える庭園がありますが、「鶴亀の庭」は確証があると言われています。崇伝は金地院を再興するにあたって小堀遠州に茶室や作庭の設計を依頼したことは崇伝の日記である『本光国師日記』で明らかですが、多忙を極めた遠州に代わって作庭を指示したのは村瀬左介で、実際に作庭にかかわったのは善阿弥など山水河原者の一派の賢庭です。賢庭は「天下一の石組の名手」と謳われ、次の日に訪ねた醍醐寺三宝院庭園にもかかわっています。
 京都の多くの庭園が見事な紅葉で彩られているのにたいし、この庭園の植栽は常緑樹のみであるのが特色です。詳しいことをお知りになりたい方は、下記の「庭園ガイド」をご参照ください。

南禅寺 金地院庭園 江戸初期に作庭された鶴亀蓬莱庭園の代表格(京都府京都市左京区)-庭園ガイド (garden-guide.jp)

20230110_143142

20230110_143406

 右側が鶴を表しています。

20230110_143424

 左側は亀を表します。右端に見える平らな石は礼拝石です。

20230110_145816

 続いて方丈の建物について一間ずつ詳しい説明がありました。慶長16年(1611)に伏見桃山城の一部を家康から賜り移築された方丈は、見事な襖絵で有名です。内部は撮影禁止のため、襖絵や茶室の写真はパンフレットや書籍、Wiki,HP等からお借りしたものです。


kontiinhoujyouo0269020012907403007

 最初に案内された「菊の間」では、胡粉を盛り上げた白菊を描いた三方の襖絵と伝海北友松の「群鴉図屏風」が拝見できます。「白菊の図」は、まだ幼名の采女と呼ばれていた狩野探幽の作だと言われましたが、実際は探幽の指示で探幽周辺の絵師が描いたものです。経年劣化で一部は下絵が見えていました。
karasubd44c6d2

 「群鴉図屏風」は迫力のある作品ですが、2017年に京博まで見に行った「海北友松展」でも触れられていなかったので、あくまでも「伝」です。真筆なら友松と等伯の作品を同時に拝観できる貴重な機会ですが。

Hojo,_Konchi-in_-_IMG_5208
「鶴の間」北面

 大方丈は将軍を迎える御成御殿でもありましたので、上段のある富貴間には絢爛豪華な狩野派の襖絵があります。

o0800060012907063632

 「富貴間」の襖絵は探幽の弟の尚信の作とされています。

Hojo,_Konchi-in_-_IMG_5220
「次の間」東面

 次に長谷川等伯の「老松」「猿猴捉月図」が見られる小方丈(奥書院)に案内していただきました。「猿猴捉月図」は藁筆で松を描き、左手で枝を掴み、足で体を固定させて水に映る月を捉えようとする猿の図で、身の程知らずのことをするな、という教えだそうで、身に沁みます。こんなに近くで見せていただいて大丈夫? と心配になるほどガラスに隔てられることもなく、ゆっくり拝見できました。

o0667029312907403011

 しばらくして戸が閉められました。目が慣れてくると、猿の手の先の水面にまるで揺れているような感じの満月が浮かび上がってきます。以前、「散り椿」という映画を見たときに、等伯の「秋芒図屏風」(相国寺承天閣美術館蔵)のレプリカが使われていて、闇夜にわずかな灯りで照らされると昼光で見るのとは全く違う世界が広がりましたが、同じような効果を意図していたようです。「散り椿」では等伯の「龍虎図屏風」(ボストン美術館蔵)と「松に秋草図屏風」(智積院蔵)も出てきて、わくわくしながら拝見したのを思いだしました。
 最後に小堀遠州作の茶室として名高い八窓席を詳しい解説とともに拝見しました。

hassouseki1ダウンロード

 八窓席については下記のサイトに詳細な記事があります。
茶室巡礼の旅-4/金地院八窓席-2 : 水間徹雄・建築巡礼の旅 (exblog.jp)

 二人だけで丁寧に案内していただけて、思いがけなく贅沢な時間を過ごしましたが、無鄰菴の予約があるので、先を急ぎました。

追記
 等伯の鴉の絵では大阪市立美術館蔵の「烏梟図屏風」があります。

 hasegawa_ishikawa_202004

 長谷川等伯については2015年に生地を訪ねたときの記録のある別ブログのリンクを貼りました。
 
記事を編集 - ココログ管理ページ:@nifty (cocolog-nifty.com)

 行きに門前を通った天授庵が次の目的地です。心配だった空模様は好転し、青空と白壁が美しいコントラストをつくりだしていました。

20230110_134950

IMG_20230118182708
o0680047312891834191

 天授庵は暦応2年(1339)に光厳上皇の勅許を得て虎関師錬が建立します。ところが文永4年(1447)の南禅寺大火で類焼、さらに応仁の乱の兵火に見舞われたのちは荒廃したまま130年余りが経過しますが、慶長7年(1602)に細川幽斎の寄進によって再興されました。長谷川等伯が描いた方丈の32面の襖絵(複製)は非公開です。
 池泉を主とした庭園と枯山水の庭園をゆっくり巡りました。

 ①本堂前庭(東庭)

20230110_135303

20230110_135249

  枯山水の庭園で、正門から本堂に至る幾何学的な切石を配した石畳を軸に、数個の石と白砂に苔を添えています。この構成は小堀遠州の発案だと言われていますが、「おにわさん」というありがたいサイトをつくっておられる方は疑問視されています。

 ②書院南庭 
 書院南庭は庭園の根本的な構想あるいは設計と言うべき地割から見ると、明らかに鎌倉末期から南北朝時代の特徴を備えているそうですが、庭園史に疎いので、恥ずかしながらよくわかりません。いただいた栞には、慶長年間と明治初年に改造が加えられたことを惜しむ記述があります。池の周りの趣向を凝らした園路を恐る恐るめぐるだけで精一杯でした。

20230110_135405

20230110_135844

20230110_135510

20230110_135555

20230110_135600

 明治初期の改造で池が東池と西池に分けられました。八つ橋が架かっているあたりは古い時代の趣をとどめているようです。

20230110_140022

 手すりがなければ引き返しましたが、なんとか渡り切りました。この辺りが西池で明治初期に蓬莱島を加えるなど改修された部分です。ブルーノ・タウトなら「いかもの」と呼ぶかもしれません。

20230110_140154

 書院が池に映り込んでとても美しい風景でしたが、下手な写真しか撮れず残念です。鯉が水音を立てていました。

20230110_140418

20230110_140428

 この石橋も後世のものらしいです。

20230110_140614


 苔むした蹲が見事です。
  

 タクシーは中門の前までしか入れないそうで、歌舞伎で有名な三門を見ながら突き当りの本坊まで歩きました。運転手さんが人の少なさに驚いていましたから、この静けさは異例なようです。

20230110_130337
OIP
20230110_130603

 木々の向こうに水路閣が見えると、本坊はすぐそばです。

20230110_130649

 大方丈の前庭も青竹を結界にした苔築山の傍らをせせらぎが流れて、なかなか風情があります。

20230110_130631

 拝観受付を済ませて、本坊をめぐります。最初に書院で外国人一家と一緒に南禅寺の映像を見せていただきました。ここも銀閣寺と同じく外国人率が高いです。南禅寺方丈では狩野派の襖絵と江戸時代の庭園から昭和になって作庭された近代庭園まで七つの庭園を見ることができます。

IMG_20230118113007

 いただいた参拝の栞によると、臨済宗南禅寺派大本山の南禅寺は、鎌倉時代の文永元年(1264)に亀山天皇がこの地に営んだ離宮を正応4年(1291)に禅寺とされたことに始まり、「五山之上」に位置付けられています。創建当初の伽藍は室町時代の三度の火災ですべて失われ、現在の建物は江戸時代初期以降の再建です。

R (1)-1

 ①大方丈庭園
  大方丈は豊臣秀吉
が寄進した御所の建物を慶長16年(1611)に後陽成天皇から拝領し移築されたもので、小方丈とともに国宝に指定されています。
 大方丈庭園は大方丈の南に面した庭で、小堀遠州作と伝えられています。


20230110_132804

20230110_132825

 羊
角嶺を借景にした禅院式枯山水の庭園は巨石の姿から「虎の児渡しの庭」と呼ばれています。

20230110_132832

 白壁に見られる5本の定規筋は、皇族が出家して住職を務めた門跡寺院の証であり、最高の格式を表しています。上掲の略図にあるように、大方丈と小方丈の7部屋に狩野元信・永徳・探幽が描いた襖絵があり、とりわけ「虎の間」の探幽作「水呑みの虎」が有名ですが、障子とガラス戸に囲まれた狭い空間からほの暗い室内を拝観するので、あまりよく観られないのは残念でした。もちろん内部は撮影禁止です。

R (2)rouka
ここから恐る恐る拝観
b0044404_11164033
 
 ②小方丈庭園(如心庭)
nyosinn2R (2)

20230110_132918

 小方丈は大方丈に接続された後方の建物で、伏見城の小書院を移したものです。小方丈庭園は別名「如心庭」と呼ばれます。昭和41年(1966)に当時の管長柴山全慶老師が「心を表現せよ」と自ら熱心に指示・指導して作庭されました。その名のとおり「心」字形に庭石を配した枯山水の石庭は落ち着いた雰囲気です。

 ③六道庭
 
20230110_133109

20230110_133059

 小方丈から奥に進むと昭和42年(1967)に植彌加藤造園が設計・施工した 「六道庭」が見えてきます。「如心庭」が解脱した心の庭であるのに対して「六道庭」は六道輪廻の戒めの庭で、六道輪廻とは、天界、人間界、修羅の世界、畜生界、餓鬼界、地獄界の六つの世界を我々は生まれ変わり続けるという仏教の世界観だそうです。作庭当初は庭の前面部分は白砂が敷かれていましたが、いまは杉苔に覆われています。

 ④蓬莱神仙庭
20230110_133052
 
六道庭に続く蓬莱神仙庭です。奥の築山に立てられた立石が蓬莱山を表しているようです。少し生活感が漂います。

 ⑤鳴滝庭
 
方丈の裏手の庭は永徳の襖絵のある鳴滝の間に面しているので、鳴滝庭と呼ばれています。方丈庭園と同様、白砂に苔築山を配し、石を寝かせています。渡り廊下が雅ですね。

20230110_133141

 ⑥華厳庭
20230110_133210

20230110_133449

 蔵の西側に江戸時代から御用庭師だった植彌加藤造園が昭和59年(1984)に作庭した華厳庭があります。白砂で大海を表し、多くの島が作られています。周りを囲む南禅寺垣と見事に調和していると思いました。50種類以上あるといわれる竹垣のうち、桂離宮の桂垣と桂穂垣、銀閣寺の銀閣寺垣に続いて南禅寺垣に出会いましたが、南禅寺垣は真竹と萩の穂を組み合わせた独特の垣根です。

20230110_133248

20230110_133351

 華厳庭に接して建つ茶室・窮心亭は修学院離宮の窮心軒にちなんで名づけられました。昭和43年(1968)の建築です。

 ⑦龍吟庭
20230110_133314

20230110_133332

 
三門の西にあった大きな鞍馬石をクレーンで運び込んで景の主石とし、
豢龍池の畔には十津川石の景石を配しています。七つの庭を拝見するのにかなり時間をかけましたが、少し寂しい冬の庭もいい風情です。ここも屋内ですから雨天でも大丈夫ですし、車椅子でなければバリアはほとんどありません。

 次は南禅院を予定していましたが、石段にひるんで水路閣を眺めただけで天授院に向かいました。あまり混雑しないそうですから、季節を変えていつか訪ねたいと思います。もうランチタイムは過ぎているのに、適当なお店がありません。予約はお二人様からが多いのが独り旅の辛いところです。お握りでも持ってくればよかったな。

20230110_134431

 銀閣寺道バス停から203系統の市バスで錦水車庫前で下車。真如堂のHPに真如堂前で下りるよりここで下りたほうが楽だと書いてあったからですが、それでもけっこうな坂道でした。バスを降りると進行方向(河原町、京都駅方面)に少し歩いて右折し、白川に架かる真如堂橋を渡ります。

20230110_114856

 東参道は、ここから坂道を登ります。

20230110_115222

 左側に現れた階段を登ります。あとで気づいたのですが、真如堂前のバス停で下りられた方も全く同じ道を通られています。どうやらどちらで下りてもこの階段を昇るようですね。

20230110_115648

 石段を昇り終えると、こういう景色です。本堂の側面でしょうか。 

20230110_115824

 一面の落ち葉で盛りの時の景観に想像をめぐらしましたが、こんな静寂は得られないでしょう。

20230110_115935

 本堂の前に来ました。人の気配はありません。

20230110_120328

 本堂の階段を昇って境内を眺めます。あら、遠くに人影。三重塔は文化3年(1817)の再建で、高さ30mの真如堂のシンボル的存在です。
 真如堂は通称で、真正極楽寺が正式名称。比叡山延暦寺を総本山とする天台宗のお寺で、永観2年(984)比叡山の戒算上人が比叡山常行堂の阿弥陀如来を円融天皇皇后・藤原詮子の離宮に安置したのが始まりです。応仁の乱で焼失してからは度々移転し、享保2年(1718)に現在の本堂が完成します。
 慈覚大師作と伝えられる本尊阿弥陀如来立像は約1mの寄木造りですが、11月15日以外は非公開です。本堂内で拝観受付を済ませて、書院の枯山水の庭を拝見させていただきました。

20230110_120946

 本堂から書院に続く長い渡り廊下は冷え切っていました。

20230110_121013

 書院南庭の清楚な花手水に「真如堂」と書かれた丸瓦が添えられていました。

20230110_121223

20230110_121226

 書院南庭の燈篭は山城の相楽郡加茂町にあった燈明寺に伝わっていた鎌倉時代の作ですが、説明文の「本歌」に戸惑いました。和歌の「本歌取り」しか知らなかった無知蒙昧さを恥じながら調べてみると、何々型燈篭の最初のひとつ、つまりオリジナルの燈篭の事を指すようです。燈明寺で思い出すのは、昨年訪ねた横浜の三渓園です。三渓園のどこからも見える三重塔は旧燈明寺から移築されたもので、さらに本堂も移築されています。天平年間に行基が開創したのち、興廃を繰り返した燈明寺ですが、和系六角型石燈篭は三井家第三代高弥氏が手に入れ、昭和50年に第10代高逐氏が真如堂に寄進されました

20230110_121234

20230110_121248

20230110_121254

 涅槃の庭は1988年に曽根三郎氏によって作庭されました。東山三十六景を借景に、亡くなった釈迦が頭を北に、顔を西に向け、右脇を下にして横たわり、周りを弟子や生類たちが囲んで嘆き悲しんでいる様子が石によって表現されています。白砂はガンジス川、檜は沙羅の林を表しているそうです。

20230110_121308

20230110_121323

20230110_121339

 涅槃の庭を望む三つの部屋に明治38年(1905)に前川文嶺・孝嶺親子によって描かれた襖絵があります。北側の部屋には孔雀(文嶺)、中央の部屋には鶴(文嶺・孝嶺)、南側の部屋には松(孝嶺)が描かれています。前川親子は四条派の流れを汲む画家で、明治時代に活躍しました。

20230110_121624

 随縁の庭は2010年に重森三玲の孫にあたる重森千青によって作られた新しい庭です。背後にある仏堂(位牌殿)の蟇股に付けられた三井家の四つ目の家紋をモチーフにデザインされました。随縁とは真実は縁に因って様々な現れ方をするが、本質は変わらないということを意味するそうです。庭の石は千青氏が境内から拾い集めたり、玉垣や縁石を再利用したものです。

20230110_121740

 鈴木松年が51歳のときに描いた「松の図」です。宮尾登美子氏の『序の舞』に登場する上村松園の最初の師の雄渾な作品に出会えました。『序の舞』を読んで、松年はあまりいい感じがしなかったのですが、本当のところはわかりません。

20230110_121722

20230110_122039

 書院の西庭には茶室や待合があります。独占拝観できたのはありがたいのですが、この冬いちばんの寒さのうえに雨がぽつり。天気予報では晴れのはずなのにと言っても始まりません。もうあの坂はご免ですし、雨が本格的になる前にとタクシーの番号を教えていただいて総門に向かいました。

20230110_124047

20230110_123712

 元禄8年(1695)に建てられた総門(赤門)は敷居がありません。南禅寺まで乗せていただいたヤサカタクシーの運転手さんはとても楽しい方で、東京でときどき遭遇する不愛想な運転手さんとは大違い。先ほど霙が降っていたと言われましたが、幸い雨はやんできました。

  ずっと行きたいと思いながら果たせなかった真如堂は、坂道以外はそれほどハードではありません。庭園も室内から拝観する決まりですので、かえって足弱には楽ですし、雨天でも困りませんが、暖房は皆無で寒さは厳しいです。スマホの示す気温は3度でした。心得違いの方がもし現れたらと心配になるほど自由に動けて、襖絵も近々と拝見できます。

1月10日(火)

 朝一番で混雑ぶりに恐れをなして近づけなかった銀閣寺を訪ねてから、何度も挫折した真如堂、午後は南禅寺界隈というプランでホテルを出ました。最後の目的地は16時に予約を入れた無鄰菴です。四条河原町のバス乗り場は複雑ですが、銀閣寺道を通る203系統の市バスは高島屋の向かいのE乗り場から発車します。

20230110_094735

20230110_095448
銀閣寺橋

 さすがオフシーズン、銀閣寺道バス停から銀閣寺に向かう700mの一本道は人影もまばらで、あたりの風情を楽しみながらのんびり歩きました。途中のタクシー乗り場には客待ちのタクシーがずらり。門前までは入れないようです。

IMG_20230115133753

map@2x


 正式な名称は慈照寺ですが、通名を使います。わざわざ述べるまでもないほど有名な銀閣寺は、臨済宗相国寺派に属し、相国寺の山外塔頭の一つです。文明14年(1482)に室町幕府8代将軍義政によって造営が開始されました。義政は祖父の義満の北山殿金閣(鹿苑寺)に倣い、隠遁生活を過ごすために造営した山荘・東山殿が銀閣寺の発祥です。
 数名のグループと何度も遭遇しましたが「こんにちは」と挨拶すると「アンニョンハセヨ」と返してくださいました。境内で出会った方の8割以上が外国の方です。

20230110_110440

20230110_110503

20230110_100112

 関西風のお正月飾りを見て育ちましたから、総門の清楚なお飾りや根付きの松に紅白の水引の門松に心が和みます。

20230110_110239

 総門から中門まで約50mの参道に銀閣寺垣が続きます。石垣の上に丈の低い建仁寺垣を一体化させた垣根は、防御を兼ねて外界との区切りとして設けられました。

20230110_100451

20230110_100506

20230110_100520
庫裏・大玄関

 拝観受付を済ませて中門から境内に入ると視界が広がります。まず目に飛び込んでくるのは向月台です。

20230110_100543

20230110_100706

20230110_103716

20230110_103729

 向月台の先に銀沙灘が広がります。銀沙灘は月の光を反射させるためだ、向月台はこの上に座って東山に昇る月を待ったものだ、というのは俗説で、これらの砂盛は室町時代に遡らず、近世以後の発想だそうです。

 庭園は上下に分かれています。観音殿(銀閣)の前の錦鏡池には7本の石橋が架けられ、白鶴島や洗月泉が美しい景観を造り出していますが、善阿弥作庭、相阿弥もかかわっていると伝えられる池泉回遊式の室町時代の庭園は江戸時代にかなり改変されています。

20230110_101006

20230110_101124

20230110_101156

20230110_101259

20230110_101224

20230110_101400

 白鶴橋に架かる仙桂橋は七つの橋の中で唯一、室町期のものです。

20230110_101048

 洗月泉は山畔から落ちる水を下段の庭へと導いています。頑張って昭和6年(1931)に発掘された室町時代の庭園跡まで登ってみました。石段が続きますが、手すりがあるのでなんとかなります。

ginkakuji11

20230110_101836


20230110_102047

 義政愛用の「お茶の井」の湧き水は、いまもお茶会で使われています。

20230110_102206

347-2

20230110_102021

 漱蘇亭跡は境内でも最も古い遺構です。どういう庭園だったのか、ちょっと想像できません。しばらく静かな雰囲気を楽しみ、境内を見下ろしたあと、石段を下りて、国宝の二つの建物の外観を拝見しました。

20230110_103817

 東求堂は銀閣寺の前身である東山殿の造営当時の遺構として現存しています。もともと持仏堂として阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂でした。浄土信仰の象徴として東求堂を建て、禅宗様式の庭園を周囲にめぐらしたところに義政の精神世界を垣間見れると言われています。

20230110_103832

 東求堂と方丈の間にある坪庭に置かれた銀閣寺形手水鉢は袈裟型の変形で江戸末期から明治初期の作です。

20230110_104353

20230110_100613

20230110_104807

 観音殿は鹿苑寺の舎利殿(金閣)や西芳寺の瑠璃殿を踏襲し、二層からなっています。一層の心空殿は書院風で、二層の潮音閣は板壁に花頭窓をしつらえ、桟唐戸を設けた唐様仏殿の様式です。お茶所の奥に花頭窓のレプリカが展示されていました。
 バス停に向かって歩いていると、旅行会社の旗を持ったガイドさんに率いられた団体様はじめかなりの方々とすれ違いましたから、朝一の選択は正解でした。たぶん、こんなにゆっくり拝観できるチャンスは二度と来ないと思います。 

1月9日(月・祝)

 10月の京都・奈良の旅に出る前に歩けるうちに桂離宮に行きたいと思って宮内庁のHPから申し込んだのですが、残り4人という日なら大丈夫でしょうという考えは見事に外れて「残念ながら落選」の通知がきました。帰宅後、意地になって再度挑戦したものの、すでに年内は埋まっていて、最短が2023年1月9日15時。申し込んで参観案内の通知をいただいたのが10月27日です。そのあと用意周到にも8月に申し込んで11月2日に参観されたykさまのブログ「緑の風」を拝見して、思いは募りましたが、寒さの厳しい時期でもあり、COVID-19の趨勢も予断を許さないし、果たして行けるかどうか迷いに迷いました。幸い雪も降らず、年末の片づけで50年近く積読だった岩波新書のブルーノ・タウト著『日本美の再発見』を再発見したことにも力を得て、ぎりぎりで新幹線の切符を買いました。
 何度も動画や行かれた方のブログを拝見して、全く自信はありません。ともかく行けるところまで行って、無理だと思ったら潔く諦めようと心に決めて、いつものタイムスケジュールでいざ出発。成人の日の9時台の中央線は予測どおり空いています。12時37分に京都に着いて、13時8分発の京阪京都バス26系統に乗ったら、なんと桂離宮前で下車するまで乗客は私だけ。最初に向かったバス停前の中村軒は、このあたりで昼食がいただけそうな唯一のお店ですが、本業は和菓子屋さんです。

20230109_142211


 中村軒のHPによりますと、山陰街道にまだ二頭立ての馬車が走っていた明治の初め頃、 初代中村由松がこの場所で 「饅頭屋」 を商ってから、 丹波・丹後路への往来のお客様に「かつら饅頭」はお土産として珍重されてきた、現在も創業当時から守り続けている 「なつかしい昔の味、 あっさりした美味しさ」を基礎にお饅頭を作り続けている、 ということですが、にゅう麺と椿餅をいただきました。

20230109_134325

20230109_135309

20230109_141019

 ここから桂離宮までは約550m、徒歩約7分です。予約は15時で、20分前に入場だそうですから、ゆっくりさせていただいて桂川沿いの道を歩いて離宮に向かいました。

map

 中村軒の前の桂橋西詰の信号を越えると、右側は桂川の河川敷で、この先で凧揚げ大会が開かれていました。左側は
桂離宮を外界と隔てている桂垣あるいは笹垣と呼ばれる根の生えた生きた笹竹を編み込んだ垣根が200m以上続きます。

20230109_142500

thkatura
桂垣(笹垣)
20230109_142911

 表門の近くに赤レンガの構造物がありました。説明板を読むと、桂川の度重なる氾濫を防止するため、明治41年(1908)に設置された徳大寺樋門の遺構です。桂離宮の庭園に水を引くために利用されたと言われますが、明治末期は井戸水が用いられていたので、ここから引いた水が使われたことはなさそうです。平成5年(1993)に桂樋門が新しく造られたので、いまは使われておりません。

20230109_143059

 表門に近づくと桂垣が桂穂垣に変わります。太い竹を縦に立てて、横に笹の細い枝を編み込んだ垣根です。

20230109_150532

R

 表門から通用門に向かいます。門前のテントで当日客を受付けていました。予約者は6名、7名の方が加わって、2人の外国の方を含めて13名のグループで拝観します。ロッカーに荷物を預けて、まずお土産購入。昨年行かれたykさまがブログ「緑の風」で紹介してくださったストラップが欲しかったのです。引率される方が心配してくださって、ご相談のうえ、行けるところまで行って、無理だと判断した時点でお迎えにきていただくことにいたしました。流暢な英語を話す非常に優れた方で、たいへんお世話になりました。

20230114_144633

IMG_20230115123245

 庭園は思った以上に歩きにくく、ひたすら下を見ていました。多くの方が見事な写真と解説をブログ等で披露してくださっているので、下手な写真を少しだけUPします。詳しいことをお知りになりたい方は完璧なブログ「緑の風」をご覧ください。

http://ykharuka.cocolog-nifty.com/blog/2022/11/post-361e64.html



20230109_150602

 御幸門は茅葺切妻屋根をアベマキという自然木の皮つき丸太で支えた門です。
 
20230109_151313

20230109_151450

 外腰掛に着きました。茅葺寄棟造りの屋根を皮付丸太で支えた吹き放しの建物で、茶室松琴亭の待合い腰掛です。腰掛の前を自然石と切り石を配した延段が延び、4という字の後ろに二重桝形の手水鉢があります。

20230109_151834

20230109_151844

 池を隔てて桂離宮で最も格式の高い茅葺入母屋造りの松琴亭が建っています。

20230109_151450

 古書院・中書院・新御殿は、改修工事のため、シートで覆われていました。

20230109_152743

20230109_152835

 動画を見て最大の懸念事案だった白川橋です。ここまでは引率の方の私と一緒に先頭を歩きましょうとのご指示で、先頭になりましたが、足が遅いと後ろの方々にご迷惑と焦って、必要以上に疲れてしまいました。白川橋は「手を貸しますから最後に一緒に渡りましょう」とおっしゃってくださったのですが、先に渡った年配の男性が渡り終えたところで転倒されて、その方のお世話に飛んでいかれました。あまりにもご親切に気配りをしてくださって恐縮していましたが、これ以上は足手まといになりますし、この場に留まってゆっくり美しい庭園を拝見したほうがいいと思って、リタイヤすることにいたしました。ずっと転ばないように下ばかり向いていましたから、まるで本末転倒です。

20230109_152735

20230109_152739

20230109_152749

20230109_152830

 勝手に歩いてはいけない決まりがあって、お迎えの方を待ちましたが、しばらくの間、あたりの佇まいを独り占めできて、これでじゅうぶんです。係りの方は皆さん、とてもとても優しくて感動しました。行きは写真を撮る心のゆとりがなかった土橋の写真も撮れましたし。

20230109_153400

 帰りは先ほど下りたバス停から京阪京都バスで桂駅東口に出て阪急電車に乗ったら「京とれいん 雅楽」でした。ブルーノ・タウトがご覧になったら 「いかもの!」と叫ばれるのではないでしょうか。

20230109_161430

o0580039714857006098

o0580039014857007065

 河原町で下りて、高島屋でお弁当を調達して、2泊するホテルにたどり着きました。お寺の境内に建つユニークなホテルです。

20230109_164311

20230111_073904
入口
20230111_073835
ロビー
20230111_073849
花手水
20230109_170103

20230109_170119

20230111_073711
大浴場入口
20230111_073925

20230111_074007

 静かで清楚なホテルでした。ベッド脇に洗面台があるのは賛否両論ですが、私は賛成です。お部屋はシャワーだけなのは欠点かもしれません。でも、大浴場の込み具合が部屋のテレビでわかり、2晩とも貸し切り状態で利用できたので、私はこのほうが楽です。



歩数 10596歩
い、

歩数



徳大おへや寺樋門は廃止されたと記されている。

このページのトップヘ