八十路の独り旅

八十路を元気で歩いています。先人の暮らしに想いを馳せ、未知なるものに憧れ、懐旧の念に浸りましょう。

2020年10月


 10月22日(木)

 最終日は京都で途中下車して、これも以前から気になっていた松尾大社の重森三玲、最晩年の遺作である松風苑に行きました。京都駅から市バスに乗って、松尾大社前バス停で下車、徒歩3分です。



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 こちらも閑散としていて、七五三まいりの幟が寂しげにはためいていました。

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 松尾大社は、701年に渡来人の秦氏が松尾山の山頂近くにある磐座を祀った社殿を建立したのが創始と伝えられています。現在の社殿は、室町時代の作で、松尾造りと呼ばれる建築様式です。お酒の神様としても信仰され、境内に「お酒の資料館」が建っています。

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 松風苑は、1975年に完成しました。古代、平安時代、鎌倉時代の庭園様式や宗教観を現代的に表現した三つの庭園から成り立っています。大きな松の木の奥の渡り廊下の下をくぐると、「曲水の庭」が広がっています。三つの庭に用いた200個以上の石は阿波の青石です。

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 洲浜を伴った曲水の流れや背後の築山の斜面の石組(いわぐみ)に石橋を架けるなど変化に富んだ構成です。

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 右奥の朱塗りの欄干のある建物は神像館です。共通切符で入れますから、何気なく入りましたら、神職の方でしょうか、私一人のために丁寧なご説明を承りました。大社所蔵の21体の神像に加えて、摂社・末社に所蔵されていた18体も拝見できます。中には朽ちかけている像もありますが、重要文化財の男神像・女神像は、わが国の神像彫刻の中でも最古最優秀品として有名だそうで、思わぬ出会いが貴重でした。

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 神像館と葵殿の間にある即興の庭は、当初の計画には全くなかった空間に即興的に造られた枯山水
形式の庭園で、重森三玲の長男の重森完途の作庭です。
 
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 古代祭祀の場である磐座を模して造られた「上古の庭」です。

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「蓬莱の庭」は、少し離れた入口付近に造られています。三玲が池の形を指示し、その後、完途が遺志を継いで完成させた最初で最後の親子合作の庭園です。回遊式になっているので一周してみました。

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 龍門瀑形式の生得の滝

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 蓬莱は不老不死の仙界で、その島に憧れる蓬莱思想は鎌倉時代にに流行しました。古来の石組の手法と現代の池の護岸の手法を巧みに取り入れた池泉庭園ですが、池の水が濁っているのが残念でした。

 重森三玲の作庭を最初に知ったのは、60年前に住んでいた団地の一角で見つかった平安時代の庭園遺構を復元された以楽公園です。そのころは有名な方だとは全く知りませんでした。次にご縁を得たのは岡山県立美術館です。その後、木曽福島の興禅寺の庭園や東福寺の庭園を拝見して、松尾大社に至ります。とても面白い方で、ジャン=フランソワ=ミレーに憧れて、三玲と改名されただけではなくて、長男は完途(カント)、長女は由郷(ユゴー)と名づけられます。長男の方は父の西洋趣味を嫌って、お子さんには「万葉集」や「古事記」からとった名前を付けられたとか。

 境内にある京漬物の「もり」のお店で共通クーポンが使えたので、小躍りしてお土産を求めました。


 ここまでは非常に順調でしたのに、最後にやってしまいました。斑鳩のお宿から荷物を宅配便で発送するときに新幹線の特急券を入れてしまったのです。駅員さんにどうしたらいいかと尋ねると、「紛失再」と印字した特急券を買って、京都と東京の有人改札でスタンプを押してもらうと320円の手数料で払い戻していただけるそうです。払い戻しができるのは1年以内ですが、ブログも書き終えたし、明日、次の旅の切符を買いがてら、特急券を2枚持って行ってきます。全くもう耄碌しすぎですね。

 中央線が込まないうちにと早めに帰宅しました。今回もいい旅ができて、お世話になった皆様にお礼申し上げます。

 歩数は8704歩でした。


 1021日(水)
 
個人旅行は気楽でいいのですが、県庁所在地などを除けばアクセスが問題です。3日目は橿原市の今井町に行こうと思って、要予約の町屋に連絡したり、それなりに準備を重ねました。調べていると、斑鳩の里にも古い町並みがあることに気付き、斑鳩町のコミュニティバスで行けることがわかりました。
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 8:22発の西向きコースの乗客は私だけでした。7分で西里のバス停に着くと、目の前が藤の木古墳です。

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 金銅製の馬具や装身具類、刀剣類など、現在は国宝に指定されているきらびやかな副葬品が多数出土したことで全国的に知られる藤ノ木古墳は、いまは所在地の字名をとって「藤ノ木古墳」と呼ばれていますが、古文書類では「ミササキ」あるいは「陵山」と呼ばれていて、天皇あるいは皇族クラスの人物を埋葬した陵墓であると見なされていたことが窺えます。研究者のあいだでは石室内に置かれていた石棺のなかに眠っている2人の被葬者として、蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子や宣化天皇の皇子とされる宅部皇子、崇峻天皇などが推定されています。
 古墳は盗掘されていることが多く、中世には盗掘を生業にしている人たちさえいたと聞いたことがあります。陵墓のなかで盗掘されていない可能性が強いのは、誉田山古墳(伝応神陵)ですが、その理由として誉田八幡が建立されていたことが挙げられます。藤の木古墳の場合も、宝積寺に近接いるので、盗掘を免れたのかもしれません。

 副葬品の一部を挙げておきます。

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 藤の木古墳のすぐそばに西里公園があり、ここから西里の町並みは至近距離です。

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西里は法隆寺の西大門前の町並みで、東里とともに、法隆寺を支える人々の生活する集落でした。西里には法隆寺作事に携わった大工が住んでいたようです。「最後の宮大工」と呼ばれ、法輪寺の三重塔の再建にも携わった西岡常一氏も、西里で育ちました。氏の『法隆寺を支えた木』が本棚のどこかにあるはずですから、探さなければ。武家屋敷や農村集落でもない特殊な町並みですが、法隆寺の西大門から西に向かって一直線に200mほど、褐色の土塀と重厚な民家が続きます。コミュニティバスは遠回りをして7分ほどかかりますが、わざわざバスに乗るほどでもない近さです。

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 西大門から参道を通って、法隆寺前バス停に向かう途中で、お宿から20人以上の方々が法隆寺を目指しておられるのを目にしました。無料のガイドツアーが宿のセールスポイントなのですが、密が怖くて参加しません。

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 奈良交通のバスで王寺に行き、JRで大和高田を経由して畝傍駅に着きました。所要時間は1時間弱です。畝傍駅から今井町まで徒歩12分、見学を依頼した今西家住宅までは徒歩20分ということなので、タクシーに乗ろうと思いましたが、影も形もありません。少し歩くと、橿原市役所が聳えています。駆け込んで、若い職員さんにお願いしたら、タクシー会社の電話番号を教えてくださいました。変なお婆さんに親切にしてくださった、市役所の方、ありがとうございました。

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 地図でわかるように近鉄を利用したほうが近いのですが、法隆寺から近鉄の駅まで行くのはかなり回り道になりますから、JRで行きました。今西家は今井町でもいちばん西に位置しています。

 今井町はずっと行きたいところリストに入っていましたが、やっと念願を果たすことができました。環濠集落というと、吉野ケ里遺跡のような弥生時代の集落のイメージが強いと思います。今井町は、本願寺の一家衆(本願寺法主の庶子の子孫)今井兵衛豊寿が開いた称念寺を中心にできあがった寺内町ですが、戦国時代ですから、周囲に濠を張り巡らし、道も一直線ではありません。大河ドラマ「麒麟がくる」に堺商人の今井宗久が登場しましたが、「海の堺 陸の今井」と並び称される繁栄を誇りました。

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 タクシーを降りると、今西家の築地塀がまぶしく、その前に戦国時代の環濠が復元されています。

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 民家、町屋と呼ぶには抵抗を感じるほどの重厚で美しい佇まい。こういう日本建築の美しさが残ったのは奇跡のようです。
 今西家住宅は「十市県主今西家保存会」の方々のご尽力で運営されています。たった一人のために申し訳ないと思いながら、懇切なご説明を承り、内部をゆっくり拝見できました。十市県主! おおっ! 国造・県主とは、律令制定以前の地方豪族! と驚きましたが、記紀神話に出てくるヤマトの先住氏族・磯城邑(磯城・十市両郡地方)の首長であった磯城彦兄弟の弟のほうの子孫だそうです。十市という固有名詞を聞くと、十に市皇女を思わずにはいられません。天武天皇の皇女で、天智天皇の皇子である大友皇子の妃となった十市皇女は父と夫が皇位を争う壬申の乱に巻き込まれます。話がそれますが、戦前の教科書には壬申の乱の記述がありません。なかったことになっています。
 平安時代の史料では、十市県主は磯城県主から分かれ、その後は、十市、中原、河合姓を名乗って、筒井などとともに大和の国衆として活躍します。
 1575年の信長と石山本願寺の石山合戦では、もちろん本願寺側について抗戦しますが、本願寺が信長と和睦したため、交流の深かった堺の豪商や明智光秀のとりなしで武装放棄しました。明智光秀から届いた降伏を許す旨の書状と信長の赦免の朱印状が残っています。その後、自治権を認められて、商工業都市として発展しました。


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k003_03nobunaga信長の朱印状

  経済的に豊かになった町民は、茶道・華道・和歌・俳諧に親しみ、各地との交流も盛んになりました。豊臣秀吉が吉野に行く途中で今井の茶室で接待されたという記録もあります。

 大坂夏の陣の功労を賞賛しに来た郡山城主が、今井の西口を守ったゆえ今西と名乗れと言ったため、いまは今西家となっているそうです。
 先日、「桃山ー天下人の100年」展を観てきましたが、権力者としたたかに渡り合って、自治都市となった今井の方の矜持を感じました。江戸時代には、1643年に全国に先駆けて幕府の許可を得て札元となり、今井札という藩札に似たものの発行権も得ていますから、大したものです。

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 内部は撮影禁止ですから、↓の写真は保存会のHPからお借りしました。広い土間はお白洲にも使われ、中2階には竈の煙を流して自白を強要する「いぶし牢」もありますから、裁判権も持っていたようです。すごいですね。

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 詳しい説明を伺って、今井町愛に感動しながら、町並みをそぞろ歩き。西東約600m、南北約400mの濠に囲まれた場所に約800戸の家がびっしりと立ち並び、そのうち80%が江戸時代の建物です。国の重要文化財は、最初に指定された今西家住宅を含めて8軒、県指定文化財が3軒、市の指定文化財が5つという町並みが残っていることに感嘆します。

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  稱念寺は、大規模な工事の最中でした。

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 恒岡醤油醸造本店は、予約すれば見学できます。

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 旧米谷家は、市が管理していて、予約なしで見学できます。

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 今井まちや館は、今西家でも見られた見事な梁が架かっています。ここも見学は自由です。

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 近鉄で来ると、ここから今井町に入ります。

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 樹齢420年のエノキは、今井町のシンボルツリーです。

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 飛鳥川に架かる蘇武橋です。「万葉集」に詠われた飛鳥川とはイメージが全く違います。畝傍駅まで歩いて、王寺経由で宿に戻りました。鉄道建設に反対運動が起きたため、今井町はJRの駅から遠くなりましたが、そのために古い町並みが残ったのですから、足がくたびれるのは我慢しましょう。

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 王寺から乗ったバスは竜田川に架かる竜田大橋を渡りますが、「唐紅に・・・」には時期が早すぎました。


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 お夕食は前菜の写真を撮っただけで力尽きました。地域共通クーポンを8000円分いただいたのですが、使えるお店がありません。飲み物代に使えると言われて、大和の銘酒の飲み比べをやってしまいました。紙のクーポンはまだましで、電子クーポンを頂戴すると途方にくれます。
 プランを立て始めたときは、京都から近鉄で行こうと考えて、行きのJRの切符は京都までしか買わなかったのですが、最寄りの駅にコインロッカーがないことがわかって、計画を変更しました。畝傍駅は無人駅です。

 この日の歩数は11194歩でした。

 追記

 大河ドラマ「麒麟がくる」で、このところ不気味な存在感を放っている片岡鶴太郎演じる摂津晴門という名前は、恥ずかしながら初耳です。調べてみると、本姓は中原で、摂津守に任ぜられて摂津姓を名乗るようになった、十市県主の末裔と称している、というのは、今西氏と共通性があります。


 10月20日(火)

 JR奈良経由で法隆寺に向かいました。学生時代に「本日休講」の張り紙をみて、学友と訪ねて以来ですから、60年以上の歳月が過ぎました。京都から法隆寺参道前までJRとバスで1時間半です。9時過ぎにホテルを出たので、交通機関はすべて空いています。
 2泊する「門前宿 和空法隆寺」に荷物を預けて至近距離の法隆寺へ。プランを立てたときは、「柿の葉ずし 平宗法隆寺店」で昼食をいただいてから、歩こうと考えていたのですが、閉っています。HPには無休と書いてあったのに、滞在している3日間、シャッターは下りたままです。理由はすぐわかりました。人出が少なすぎます。
 法隆寺については、明治時代の再建・非再建論争から始まって、語ればとめどないものがありますが、それはやめておいて、静寂に満ちた稀有の機会を喜び、飛鳥風に身を任せることにいたしました。 
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 西大門と東大門を結ぶ通路は11時過ぎでこの状態です。

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 中門および廻廊は、飛鳥建築の粋を集めたものです。 

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 我が国最古の五重塔として知られる塔の美しさに時を忘れます。

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 金堂(飛鳥時代)の壁画が焼損したのは、小学6年生のときです。模写をしていた画家のために用意された電気座布団のスイッチ消し忘れによる失火というニュースは、子ども心にも衝撃でした。これがきっかけで文化財保護法が制定され、火災が起きた1月26日には全国的に防火訓練が行われています。

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 廻廊の連子窓の気品に打たれます。本来は修学旅行の生徒たちや外国人観光客でごったがえしていたはずですが・・・。

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 2001年に聖徳太子1380年御聖諱を記念して、毎年期間限定で開かれた「法隆寺秘宝展」は今年で終わります。大宝蔵殿の展示は独占状態で拝観できました。

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 東大門を出て、四脚門から東院伽藍に入ります。ここまでで境内を1㌔以上歩きました。

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 奈良時代に建てられた夢殿です。東院伽藍から中宮寺に入れます。本堂に安置された本尊菩薩半跏像(如意輪観世音菩薩)は、アルカイックスマイルの典型として、国際美術史学者から高く評価されているというご説明がありました。本当に美しいお姿です。

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 東院伽藍に戻って、築地塀に沿った道を法輪寺に向かいます。

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  片野池の畔に張り出しのようなものを造って、石仏が祀られていました。困ったことに、このあたりは飲食店が全くありません。平宗が閉っていたので、お昼抜きになってしまいました。

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 コスモス畑のかなたに法輪寺の塔が見えて、足取りが軽くなります。

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 法輪寺の表門に着きました。聖徳太子が飛鳥から三つの井戸をこの地に移したので、三井寺とも呼ばれたと伝えられています。法輪寺の創建は飛鳥時代にさかのぼり、発掘調査によって、法隆寺式伽藍配置であり、規模は法隆寺西院伽藍の三分の二であることがわかりました。平安時代は栄えていましたが、しだいに衰退し、江戸時代には三重塔を残すだけになったそうです。

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 三重塔は1944年に落雷で焼け落ちました。国宝指定は解除となり、戦後の混乱期、高度成長による物価高騰などで、再建は困難を極めますが、1975年に木工事は西岡常一棟梁が行って、元の場所に元の姿で再建されました。

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 法輪寺と法起寺は10分足らずの道のりです。法輪寺の清らかな境内とお別れして、いざ、最後の目的地へ。

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 また歩きます。またコスモスと塔です。

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  ここがこの日ではいちばんにぎわっていました。コスモスフェスタは今年は中止になりましたが、来年は再開できるといいですね。

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 法隆寺の五重塔は現存する最古の五重塔ですが、法起寺の三重塔は現存する最古の三重塔で、もちろん国宝です。三塔をめぐり終えて、幸せな気分になりました。

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 西門を出て100mほど歩くとバス停があるのは調査ずみです。1日2便の15:26発のコミュニティバスで宿に戻りました。2泊した「門前宿 和空法隆寺」は、評価が非常に高くて、期待していましたが、それほどでもないと思ってしまいました。いかにも外国人が好みそうな和風のホテルで、お食事は神田川俊郎氏が監修という触れ込みがいささか鼻につきます。最初に荷物を預かっていただいたときの行き届いた対応と、支配人の人間性に落差がありすぎてガッカリしました。お部屋もベッドが最悪です。サービス業のあるべき姿を再考していただきたいものです。

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 テレビの左側にある電話をとるには、這っていくか、転がり落ちるかしか方法がありません。電話はベッドサイドですよね。

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 先付 きのこの白和え 柿 枝豆 とんぶり 菊花
 前菜 猪口くみ湯葉山葵 柿玉子 栗茶巾 鶏松風 鮎甘露煮 公孫樹カステラ 銀杏松葉串

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 吸物 土瓶蒸し 大黒占地 鱧 海老 銀杏 三つ葉 酢橘

 このあと、造り、焼物、小鍋、御飯、菜、留椀、香物、水物と続きますが、写真を撮るのが面倒になりました。やはり大声を出す人が向かいにおられて、場所を変えていただきました。旅の中で、食事がいちばんリスクが多いというのが実感です。1時間半、同じ室内にマスクをしない人が10人ほどいて、おしゃべりに夢中ですから、こういうシチュエーションは避けたいと思います。

 
歩数 12293歩 平らなところばかりでしたので、前日より楽でした。




 10月19日(月)

 都民も旅に出られるようになって、さっそく旅のプランを立てました。昨年、誕生日を金沢で迎えて以来、ずっと蟄居していましたから、1年ぶりです。

 渋谷での山手線の乗り換えが玉川改札の廃止でハードになり、朝のラッシュや遅延を避けたいので、品川付近で前泊し、のんびりと新幹線で京都に向かいました。お昼は「なだ万」のお弁当です。車内は空いているのに、よりによって金髪、マスクなしのお兄さんの隣席でしたので、乗務員さんにお願いして席を替えていただきました。
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 駅ナカのホテルに荷物を預けて、JRのバスで栂ノ尾を目指します。終点の周山から期間限定のローカルバスで常照皇寺まで行った数年まえの春を懐かしく思い出しました。
 立命館大学前を過ぎると、乗客は4人になり、栂ノ尾で私が降りたら0人です。バス停は裏参道の前なのですが、かなり厳しい石段を登らなければなりません。

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 高山寺の創建は奈良時代の末までさかのぼるそうですが、中興の開祖である明恵上人は身分の上下を問わず、多くの人々の信仰を集め、「鳥獣人物戯画絵巻」に代表される多くの文化財が高山寺に集積されました。旅の前に伝記をひも解いて、そのすさまじいまでの求道心に驚きましたが、ぎりぎりまで自分を追い詰めて、耳を切り落とすというのはゴッホ顔負けです。

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 明恵上人時代の唯一の遺構である石水院(国宝・鎌倉時代)だけは相客さんがおられました。創建当時は金堂の東に位置していましたが、明治時代にいまの場所に移築されます。

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 当初の開山堂は室町時代に焼失し、現在の開山堂は江戸時代の再建です。石水院から先はおひとり様になってしまいました。 こちらが表参道です。
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 中世の「高山寺絵図」にみられる金堂は室町時代に焼失し、いまの金堂は江戸時代に仁和寺の古御堂を移築したと伝えられています。お参りする人もいなくて、なんだか寂しげでした。
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 ここから車の行きかう道路を10分ほど歩いて、右に曲がると、清滝川に出会います。

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 指月橋を渡ると、参道の石段が現れます。登り切ったら、また石段。ここも楽ではありません。

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 石段の右側に「大界外相」と刻まれた石柱が立っていますが、ここから上は清浄な場所であることを示す結界です。「桃山ー天下人の100年」でも、清流が世俗を分かつさまを描いた絵巻を拝見しましたが、清流の持つ意味は大きかったのでしょう。

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っと表門にたどり着くと、本堂の前に、拝観希望者は左の建物のインターフォンを鳴らせと書いてあるので、その通りにいたしましたら、ご住職の奥様がお堂の扉を開けてくださいました。本堂は元禄13年に桂昌院の寄進によって再建された欅造りの建物です。本尊の釈迦如来像(鎌倉時代)、千手観世音菩薩像(平安時代)、愛染明王像(鎌倉時代)など。たくさんの仏様に向き合って、静かなときを過ごしました。

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 本堂の東側の聖天堂につながる渡り廊下がいい雰囲気です。

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 本堂から聖天堂の白い幕が見えます。

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 本堂の西側を少し進むと、茶畑がありました。かつてここで暮らした僧たちが喫した古い品種が残っているそうです。

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 なんだかわけのわからない写真になってしまいましたが、真ん中の樹木の間に立っている石柱はアショカ王の石柱で、4頭の馬が彫られています。世田谷の九品仏にもアショカの塔がありましたが、どういう意味があるのか、よくわかりません。

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 あとひと月で鮮やかな紅葉が見られるはずですが、このご時世ですから、なるべく人の少ない場所を選んでいます。

 帰りのバスも空いていました。GoToキャンペーンのおかげで、いつもよりワンランク上のホテルに泊まれて、やはり居心地がいいと思いましたが、贅沢が身に着くと困ります。夕食は伊勢丹11回の「天一」に予約していました。あとで和久傳が良かったと思ったのは、カウンター席というので安心していたら、コの字形のカウンターで、向かいのおじ様が大声でとめどなく話されたからです。

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 歩数 11626歩、石段が多く、疲れました。


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