11月26日(木)

 博多駅前のホテルに2泊しました。典型的なビジネスホテルですが、テーブルがあったのと、大浴場を独占使用できたので、まあ、いいかという感じです。宿泊客は圧倒的に男性が多く、暗証番号を入力すると扉が開く浴場は2日とも誰にも会いませんでした。駅から徒歩4分のはずが、足腰を傷め、ふらつきのとまらない身には、もっと遠く感じたし、博多駅前は自転車で疾走してくる人が多くて、恐怖です。

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 朝食会場はあまり混んでいなくて、ほっとしました。この日は久留米を訪ねますが、物好きにもJR久留米駅前から40分近くバスに乗っても行きたい場所がありました。それは6世紀前半に九州独立を目指して乱を起こし、大王に匹敵する巨大な前方後円墳に葬られたと伝えられる筑紫君磐井が住んだ八女の地域です。磐井の表記は『日本書紀』では「磐井」『古事記』では「竺紫君石井」、『筑後国風土記』逸文では「筑紫君磐井」となっていて、『日本書紀』では筑紫国造と記していますが、国造は後世の潤色とされました。ここでは磐井にしておきます。かつて歴史を学んだころは、皇国史観への反発から反権力的な出来事が称賛される風潮があり、磐井の乱も中世の山城国一揆などと並んで注目されていました。磐井のことはずっと頭の片隅にあって、いまでなければ、その地を踏むのは無理だと思って旅程に入れました。
 博多から久留米は新幹線で17分、鹿児島本線の快速なら40分。倹約して快速に乗りましたが、ラッシュアワーにもかかわらず車内は空いていました。八女営業所行の西鉄バスもガラガラです。久留米市から八女市に入って間もなく福島高校前に着きました。まず岩戸山古墳の前に建つ八女市岩戸山歴史文化交流館「いわいの郷」で「石製表飾品の変遷~勢期から衰退期まで~」と題する展示を見せていただきました。
 磐井の乱は、継体21年(527)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いるヤマト王権軍の進軍を筑紫君磐井がはばみ、継体22年(528)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱または王権間の戦争だと言われています。この反乱もしくは戦争の背景には、朝鮮半島南部の利権を巡るヤマト王権と、親新羅だった九州豪族との主導権争いがあったと推定できますが、磐井の勢力を独立した政治権力と認めるか否かで、評価が反乱か戦争かに分かれます。

 磐井の乱に関する文献史料は、ほぼ『日本書紀』に限られていますが、『筑後国風土記』逸文や『古事記』(継体天皇段)、『国造本紀』にも簡潔な記録が残っています。『筑後国風土記』には「官軍が急に攻めてきた」となっており、『古事記』には「磐井が天皇の命に従わず無礼が多かったので殺した」とだけしか書かれていないなど、反乱を思わせる記述がないため、『日本書紀』の記述はかなり潤色されているとして、すべてを史実と見るのを疑問視する研究者もいます。歴史書の多くは勝者が書きますから、本当のところはわかりません。少なくとも八女では、磐井は八女の地を守り、九州を守ろうとした郷土の英雄だとみなされているようです。 


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 「いわいの郷」がリニューアルオープンして5年目を記念した展覧会は八女古墳群の出土品に加えて熊本県・佐賀県の古墳の出土品も展示され、見ごたえのあるものでした。主催した八女市・八女市教育委員会に大きな拍手を送りたいと思います。

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  展示室は貸切状態で、入場無料で撮影可という有難い展示です。あと3日で終了ですから、辛うじて間に合いました。「石製表飾品」とは、古墳の墳丘上やその周囲に樹立された石造物です。土製の埴輪を石製品に置き換えたもので、形象埴輪より大型のものが見られます。分布は築後から肥後にかけての有明海・八代海沿岸部、菊池川流域に集中し、この地域独自の葬送儀礼と考えられています。ずっと「石人・石馬」と呼ばれていましたが、それ以外のものも多いので、「石製表飾品」という名称が用いられるようになったというのは、初めて知りました。
 「石製表飾品」は、5世紀初頭から6世紀後半にかけて造られ、鳥取県の1例を除くと、九州中北部に集中しています。「石製表飾品」樹立古墳はは、出土が伝えられているものを含めても30例余りと少なく、分布は『日本書紀』に記された磐井の勢力圏である「筑紫・火・豊」と一致することから、北部九州の独自性を示すシンボルだと考えられています。
 「石製表飾品」は、基本的に古墳から1点から多くても10数点しか用いられていませんが、磐井の墓とされる岩戸山古墳から出土したもの、出土したと伝えられているものは100点に及んでおり、種類と数で他の古墳を圧倒しています。「石製表飾品」の種類は、人物(武装・平装・裸体)、動物(馬・猪・鶏・水鳥)、武器・武具(刀・盾・靫)、器材(壺・蓋・翳)など多種にわたります。
 磐井の乱ののち、石製品の樹立は急速に衰退したと考えられていましたが、文人や子どもを背負った女人石人が出土しているので、形を変えながら続いていたことがわかります。これまで見た関西や関東の古墳の出土品とは全く違う世界です。

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 右側の武装石人(鶴見山古墳)は重要文化財に指定されています。ヤマトの兵は乱ののち、ほとんどの石人・石馬の手足を打ち落としました。鶴見山古墳は磐井の子の葛子の墓ではないかと言われています。

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 石靫(岩戸山古墳)

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 武装石人頭部(伝岩戸山古墳)

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  石盾(岩戸山古墳) 

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 子負いの女性石人(童男山古墳群)は、鏡が置かれて、母親の背中にしがみついている子どもが確認できます。6世紀中ごろから後半の石人です。

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 中央に展示されている立山山8号墳出土の金製垂飾付耳飾は、朝鮮半島製と思われ、筑紫君一族と半島との緊密な関係がうかがえます。
 

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中身
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 中身の濃いい展示を拝見したあと、「いわいの郷」の裏側の岩戸山古墳に登ってみました。  

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 全長135mの岩戸山古墳は古墳は東西を主軸にして、後円部が東に向けられています。2段造成で、北東隅に「別区」と呼ばれる一辺43メートルの方形状区画を有するのは、日本で唯一の事例です。ここで裁判が行われたと推定され、出土した「石製表飾品」のレプリカが大きさを縮小してずらっと並んでいます。残念なことに、戦時中に開墾されたため、表土は荒らされてしまいました。内部主体は明らかになっていませんが、電気探査等で横穴式石室と推定される構造が確認されています。古くは後円部の墳頂に神社が鎮座していたので、盗掘を免れているかもしれません。伝応神天皇陵も墳頂に誉田八幡が祀られていたため、盗掘を免れている可能性がありますが、皇室関係の陵墓の調査はタブーです。


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 古墳は近くに寄ると、森にしか見えませんが後円部です、岩戸山古墳には古くから群生するツブラジイの原生林が広がっています。岩戸山古墳は磐井の生前に築造されたいわゆる寿陵ですが、磐井が見た光景とはまるで違うと思います。

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墳の出土品
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 八女市北部、東西10数kmからなる八女丘陵上に展開する八女古墳群は、5世紀から6世紀にかけての古墳が数多く築かれ、その数は前方後円墳12基、装飾古墳3基を含む約300基に及びます。年代的には磐井の祖父の時代の石人山古墳から磐井一族の繁栄が始まり、磐井の息子の葛子の墓に比定される鶴見山古墳を経て、童男山古墳を最後に約200年続いた八女古墳群は終焉を迎えます。その一端を体感できて、良かったと思います。

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 福岡県はあまりご縁がなかったので、市町村の位置関係がよくわかりません。八女市は南端です。帰りのバスは西鉄久留米駅前で下車しました。