八十路の独り旅

八十路を元気で歩いています。先人の暮らしに想いを馳せ、未知なるものに憧れ、懐旧の念に浸りましょう。

目次が長くなりすぎましたので、三つに分けました。

2024年
 
8月・・三世代で夏旅
  ①高速バス
  ②鐘山苑(庭園) : 
  ③鐘山苑(館内) 
  ④鐘山苑(お食事)
  ⑤久保田一竹美術館(新館) 
  ⑥久保田一竹美術館(本館) 
  ⑦久保田一竹美術館(散策路)
   6月・・はけの森美術館(武蔵小金井市)
   5月・・京成バラ園 
 3月・・大阪&名古屋の旅
  ①西山氏庭園(大阪府豊中市)
  ②中之島美術館(大阪市) 
  ③八勝館(名古屋市)
  ④興正寺(名古屋市)
  ⑤名古屋城二之丸庭園 
  ⑥徳川園(名古屋市)
  ⑦文化のみち撞木館(名古屋市) 
  ⑧文化のみち二葉館(名古屋市)
 3月・・下野の旅
  ①馬頭広重美術館  
  ②乾徳寺 
  ③飯塚邸(那珂川町)
  ④真岡 
  ⑤宇都宮美術館 
  ⑥益子参考館
  ⑦陶芸メッセ
 1月・・伊勢志摩(珍しく5人旅)   
  ①元日  
  ②神明神社(石神さん)
  ③鳥羽展望台&ミキモト真珠島
  ④伊雑宮 
  ⑤外宮  
  ⑥野あそび棚(昼食)
  ⑦内宮 
 
2023年
 
11月・・大和・山城
  ①正覚庵
  ②光明院
  ③飛鳥資料館・庭園 
  ④飛鳥資料館・館内
  ⑤飛鳥寺&万葉文化館
  ⑥石舞台&川原寺 
  ⑦慈光院 :
 10月・・大和・山城
  ①真如院
  ②京都市洛西竹林公園 
  ③談山神社(その1) 
  ④談山神社(その2)
  ⑤安倍文殊院 
  ⑥東寺(その1)
  ⑦東寺(その2)
 7月・・奥多摩
  ①玉川屋&玉堂美術館&はとのす荘
    ②鳩ノ巣渓谷&ままごと屋
 6月・・番外編
  深大寺     
 6月・・初夏の古都
     ①岩倉実相院 
  ②洛北蓮華寺 
  ③比叡山 
       ④三千院(大原) 
⑤宝泉院・実光院(大原)
  ⑥吉城園・入江泰吉旧居  
       ⑦二月堂・三月堂・興福寺 
       ⑧智積院 
       ⑨両足院 :
       ⑩北野天満宮      
       ⑪龍安寺 
       ⑫蘆山寺 
      ⑬京都御苑(閑院宮邸跡・拾翠亭)
  5月・・初夏の日光
       ❶松屋敷
       ❷中禅寺金谷ホテル          
       ➌田母沢御用邸記念公園       
       ❹金谷ホテル歴史館        
 4月・・福島の旅
  ❶裏磐梯 
  ❷会津若松(麟閣・県立博物館など)
  ❸会津若松(御薬園・武家屋敷)
  ❹会津若松(七日町通り)
  ❺ブリティッシュヒルズ 
  ❻南湖公園 
 3月・・出雲の旅
  ❶出雲大社 
       ❷古代出雲歴史博物館(前半)
  ❸古代出雲歴史博物館(後半)
  ❹絲原記念館(奥出雲町)
  ❺可部屋集成館(奥出雲町)
  ❻木綿街道交流館・本石橋邸(雲州平田)
  ❼平田本陣記念館(雲州平田)
  ➑康国寺 
  ❾八雲本陣&出雲文化伝承館(出雲屋敷・出雲流庭園) 
  ❿出雲文化伝承館(独楽庵) 
  ⓫出雲文化伝承館(松籟亭・企画展示室など)
  ⓬出雲キルト美術館 
 3月・・早春の京都
  ❶知恩院(友禅苑) 
  ❷知恩院(大方丈・小方丈・方丈庭園)
  ❸大徳寺(三玄院・芳春院)  
  ❹地蔵院(椿寺)
  ❺妙心寺(玉鳳院)
  ❻妙心寺(桂春院)
  ❼妙心寺(寿聖院)
  ❽本法寺 
 1月・・新春の京都
  ❶桂離宮 
  ❷銀閣寺 
  ❸真如堂 
  ❹南禅寺・方丈庭園
  ❺南禅寺・天授庵  
  ❻南禅寺・金地院 
  ❼無鄰菴 
  ➑醍醐寺・三宝院
  ❾醍醐寺・理性院 
  ❿醍醐寺・伽藍&霊宝館   


 

2022年
 11月・・古都再訪
  ❶上賀茂神社 
  ❷奈良国立博物館(正倉院展・庭園)
  ❸依水園
  ❹東大寺ミュージアム・戒壇院千手堂 
  ❺西大寺 
  ❻白龍園  
 11月・・駿河の宿場町
       ❶丸子宿(柴屋寺)       
  ❷丸子宿(丁子屋)
  ❸興津宿(岡屋旅館)
  ❹興津宿(清見寺)
  ❺興津宿(興津坐漁荘)
 10月・・横浜・三渓園
  ❶内苑  
  ❷外苑  
 10月・・古都の秋
  ❶詩仙堂 
  ❷圓光寺 
       ❸金福寺       
  ❹大徳寺塔頭大仙院・聚光院・総見院 
  ❺大徳寺塔頭興臨院・瑞峯院・龍源院 
  ❻ 唐招提寺
  ❼薬師寺 
  ❽大安寺 
  ❾平城宮の庭園 
 6月・・初夏の浜松
  ①ぬくもりの森 :
  ②長楽寺 
  ③龍潭寺
  ④新居関所 
  ⑤本興寺

 2021年
    12月・・上州の旅
  ①旧小幡藩武家屋敷群
  ②四万温泉 
  ③かみつけの里博物館
    11月・・甲斐路の庭園
  ①恵林寺&甘草屋敷
  ②甲府市内と宝寿院
 5月・・新緑の京都
  ①重森三玲庭園美術館 
  ➁松花堂庭園 
  ➂永観堂 禅林寺
  ④竹の寺・地蔵院 
       ⑤西芳寺(苔寺)
 
 2020年
 11月・・筑紫路
  ①大宰府その1
  ②大宰府その2
  ➂八女の古墳
  ④久留米 
  ⑤秋月 
 11月・・若狭路
  ①西福寺(敦賀市)
  ➁気比神宮・金ヶ崎緑地(敦賀市)
  ➂松永六感 藤屋(小浜市)
  ④明通寺(小浜市)
  ⑤熊川宿(若狭町) 
  ⑥羽賀寺(小浜市)
  ⑦萬徳寺(小浜市)
 10月・・初秋の山城・大和
  ①高山寺・西明寺 
  ➁斑鳩の里 :
  ➂西里(斑鳩町)・今井町(橿原市)
  ④松尾大社の庭園 

2019年
 11月・・北陸新幹線の旅
  ①長者ヶ原遺跡@糸魚川市 
  ②糸魚川定期観光バス
  ③谷村美術館・翡翠園・親不知@糸魚川市 
  ④長町武家屋敷@金沢市
  ⑤金沢庭園めぐり
 10月・・新発田&鶴岡の旅
  ①新発田市の大名庭園
  ②旧風間家・玉川寺・羽黒山五重塔
  ③致道博物館
 8月・・松本&安曇野
  ①まつもと市民芸術館
  ②安曇野ちひろ美術館
  ③松尾寺  
  ④碌山美術館
  ⑤安曇野穂高ビューホテル
  ⑤大王わさび農場
 5月・・新緑の大和路
  ①高畑界隈 
  ②長谷寺 
  ③室生寺・聖林寺  
  ④円城寺・奈良国立博物館 
 4月・・春の信濃路
  ①木曽福島&奈良井 
  ②小布施
  ③松代
  ④続・松代   

 3月・・飛騨から越中へ
  ①飛騨高山 
  ②五箇山と白川郷 
  ③内山邸 
  ④浮田家住宅・ガラス美術館・金岡邸 
 
 
 

 涼しくなるまで旅に出るのは自粛して2018年以前の旅日記の移転に取り掛かりました。目次❶は手抜きをして、ココログ所載のブログからのコピペですから、目次❷❸とデザインが違います。2016年の十和田・奥入瀬の旅は景観の美しさでは最高でした。2011年で海外独り旅を断念し、国内の旅に切り替えましたが、4年ほどは3度の手術とリハビリ、その後の体調不良や家庭の事情で修羅の巷、旅もままならない状態でした。見苦しく、足腰がー、体力の限界、と叫んでばかりいて、汗顔の至りです。
 2002年~2011年の海外の旅は思い出の聖堂・珠玉の街 (fc2.net)思い出のオペラ (fc2.com)に記しています。

2018年
 12月・・名残の紅葉
  ①東福寺
  ②大覚寺
 11月・・湖東の旅
  ①石塔寺
  ②金剛輪寺・西明寺・一休庵
  ③百済寺・永源寺 
  ④石馬寺
  ⑤五個荘
 11月・・草津から甲賀へ
  ①準備編
  ②小野&草津
  ③常楽寺・長寿寺
  ④金勝寺
  ⑤油日神社・櫟野寺
  ⑥大池寺・善水寺:
  ⑦西教寺・日吉神社
  ⑧旧竹林院・大津市歴史博物館 
 10月~11月・・道南の旅
  ①函館(五稜郭)
  ②函館(元町)
  ③松前   
  ④江差
  ⑤大沼公園  
 10月・・安来から嵐山へ
  ①古代出雲王陵の丘@安来市荒島
  ②清水寺&雲樹寺@安来市 
  ③足立美術館@安来市
  ④松江
  ⑤天龍寺@嵐山
  ⑥弘源寺&宝巌院@嵐山:
 7月・・栃木の旅
  ①板室温泉
  ②雲巌寺
  ③大雄寺
 6月・・安芸の旅
  ①三景園&不動院
  ②宮島(厳島神社・大聖院)
  ③宮島(歴史民俗資料館・弥山・五重塔・千畳閣)
  ④広島(縮景園・県立美術館)
 5月・・新潟から酒田へ
  ①新潟市内
  ②北方文化博物館
  ③酒田
 4月・・高野山と河内&京都の名刹
  ①天野山金剛寺
  ②高野山
  ③観心寺
  ④道明寺
  ⑤葛井寺
  ⑥建仁寺
  ⑦仁和寺
  ⑧高台寺・園徳院 
 3月・・三世代で奈良・京都
  ①依水園・春日大社 
  ②ならまち 
  ③宇治(宇治上神社・興聖寺)
  ④平等院から錦市場

2017年 
 12月・・師走の吉備路
  ①岡山市
  ②吉備津神社
  ③総社市(宝福寺・鬼ノ城・備中国分寺)
  ④倉敷
  ⑤旧閑谷学校
 11月・・秋の鎌倉
  ①円覚寺「風入れ」
  ②長寿寺
  ③浄智寺
 11月・・松阪の旅
  ①斎宮歴史博物館
  ②松阪城跡
  ③北畠氏館跡
  ④商人の館
 10月・・尾張・美濃の旅
  ①「長沢蘆雪展」@愛知県美術館
  ②郡上八幡の街
  ③長滝白山神社
  ④慈恩禅寺@郡上八幡
  ⑤郡上八幡博覧館
 7月・・青蓮院と近江・美濃
  ①青蓮院&将軍塚
  ②MIHO MUSEUM
  ③石山寺
  ④三井寺
  ⑤永保寺
  ⑥織部の里公園
 6月・・近江と南山城
  ①教林坊 
  ②近江八幡
  ③居初氏庭園
  ④葛川明王院
  ⑤京田辺市の三寺院 
 5月・・陸奥の旅
  ①角館
  ②盛岡(啄木記念館・盛岡城址・原敬記念館・志波城歴史公園)
  ③水沢(奥州市)
 4月・・京・近江の春旅
  ①石峰寺
  ②常照皇寺
  ③海北友松展@京都国立博物館
  ④宝船温泉
  ⑤興聖寺@朽木   
  ⑥鴨稲荷山古墳&高島歴史民俗資料館
  ⑦白髭神社&鵜川四十八体仏
  ⑧堅田

2016年
 11月・・「山形日和。」
  ①山寺(立石寺)
  ②最上義光歴史館と霞城公園
  ③上山(かみのやま)市
  ④米沢
 9月・・甲斐の名刹
  ①大善寺
  ②清白寺
 6月・・再訪・豊の国
  ①杵築
  ②中津(福沢旧居・合元寺)
  ③中津(薦神社・大雅堂)
  ④宇佐風土記の丘&豊後国分寺跡
 
5月・・みちのくの旅
  ①十和田湖へ「山形日和。」④米沢: あれも観たい! これも聴きたい! (cocolog-nifty.com)
  ②十和田湖遊覧
  
③奥入瀬渓流散策
  ④蔦七沼
  ⑤蔦温泉旅館
  ⑥国道103号線で三内丸山遺跡 
  
⑦五能線で十二湖へ
    4月・・瀬戸内の旅
  ①書写山園教寺
  ②好古園
  ③こんぴら歌舞伎  
  ④豪雨の尾道
 3月・・近江・越前の旅
  ①観音の里「高月」
  ②永平寺
  ③一乗谷朝倉遺跡
  ④白山平泉寺
 3月・・早春の豊の国 
  ①臼杵の石仏
  ②五嶋旅館
  ③臼杵城跡から稲葉家下屋敷
  ④フグ三昧のあと大分へ 
  ⑤宇佐神宮・富貴寺・真木大堂・両子寺

2015年
 11月・・箱根ひとり旅
  ①岡田美術館
  ②箱根ラリック美術館
 10月・・長谷川等伯の生地・七尾
  ①七尾美術館
  ②山の寺院群
 5月・・初夏の大和
  ①法界寺(日野)
  ②般若寺
  ③佐保路(不退寺・海龍王寺・法華寺)  
  ④佐紀路(平城宮跡・秋篠寺)
  ⑤ならまち 
  ⑥小さなホテル奈良倶楽部
 5月・・新緑の足利 
  ①栗田美術館
  ②あしかがフラワーパーク  
  ③鑁阿寺 
  ④足利学校
 4月・・福島の旅 
  ①飯坂温泉
  ②大河原と花見山&ももりん号
  
③白水阿弥陀堂
2014年 
 
6月・・あじさいの旅
  ①三室戸寺・平等院・宇治上神社
  ②海住山寺・岩船寺・浄瑠璃寺
  
③久安寺・池田城址公園・小林一三記念館
 
4月・・三世代で長崎へ
  ①九十九島遊覧
  ②ハウステンボス
  
③長崎市内
2013年
 
7月・・名古屋から香住・京都
  ①熱田神宮・古川美術館・為三郎記念館
  ②大乗寺(応挙寺)
  ③細見美術館 

 5月・・塩田平の塔を訪ねて
  ①上田城址・安楽寺・常楽寺
  ②中禅寺・龍光院・前山寺 
  ③生島足島神社・大法寺
 4月・・姉と京都へ
  ①妙心寺(退蔵院・桂春院)相国寺(法堂・開山堂‣承天閣美術館)
  ②智積院・「狩野山楽・山雪展」京博  
 
4月・・東北の旅
  ①準備編
  ②平泉
  
③「若冲が来てくれました」展@仙台市博物館:

2011年

 3月・・沖縄の旅  
  ①首里城
  ②古宇利島・美ら海水族館・琉球村
  ③琉球ガラス村・斎場御嶽・平和祈念公園

 本館の西側から登る散策路は、途中で手すりのない急な階段を登らなければならないので、娘の手を借りなければ行けなかったでしょう。持つべきものは娘です(ヨイショ)。必死で歩いて、写真を撮る余裕はありません。

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 やっと平らなところに来て、振り返れば本館の屋根。

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 荒々しい溶岩も瑞々しい苔に覆われてまろやかです。

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 木漏れ日が清々しい別天地。

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 湧水池が涼し気です。

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 たどり着きました。洞窟の慈母像! 清水の湧く溶岩でつくられた洞窟の中に安置された普賢菩薩は、一竹が亡き母を偲んでインドの仏師に彫ってもらいました。

 帰りは少し足に優しい散策路を見つけました。

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 ここにもインドの木の扉。


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  橋の向こうは新館ギャラリーカフェです。

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 茂みの中に一竹の歌碑がありました。14時近くになりましたので、そろそろ帰らなければ。

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「一竹の いのちを染めし この辻が花 生きよ華やげ 幻ならで」

 
帰宅後、ショップで求めた冊子を開いたら、冒頭に国際ショディエフ財団会長夫妻の「ご挨拶」が掲載されていました。不思議に思って調べてみると、一竹美術館は2012年に経営が破綻してコレクションがオークションにかけられそうになったとき、一括して買い取ったのがウズベキスタン生まれでカザフスタンとベルギーの国籍を持つ大富豪のショディエフ氏だそうです。作品が散逸し、美術館が閉鎖されなくてよかったとは思いますが、なんだか複雑ですね。

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 徒歩100mほどの久保田一竹美術館前のバス停で河口湖周遊バスに乗りました。河口湖の東側を通る路線には美術館が点在しています。ノーマークだった河口湖美術館はロケーションもいいし、富士山の絵を見て、展望ーロビーでのんびりしたいと夢は膨らみます。バスはだんだん込んできて、20分ほどで河口湖駅前に着きました。

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 河口湖駅は外国の方だらけ。

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 娘が予約してくれたビュー特急の車内は快適でした。
 
  
 河口湖ー大月 15:37-16:26 ビュー特急14号 1号車 4人席 
 大月ー高尾 16:33-17:11
 高尾ー吉祥寺 17:29-18:02

  歩数 2日 7400歩 3日 10028歩

 ※娘や孫が撮った写真がたくさんあります。
 

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本館入口(HPより) 

本館は、一千年を超す「ひば(ひのき科)」の大黒柱16本を使ったピラミッド型の建築物。頂点は13メートル、床面積200平方メートル。伝統的な職人の技と、現代的なログハウス工法の技との融合が成し得た複雑な木組みで、吹き抜け状の内部からは、その木組みが全てご覧頂けます。久保田一竹のライフワーク「光響」の連作をはじめ、富士をテーマにした作品群、及び代表作品が展示されています。(HPより)

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本館・作品展示室(HPより)
 
 「辻が花」という言葉は50年ほど前に立原正秋の小説で知りました。『辻が花』では夕子という女性の帯が沈んだ美しさを湛えた辻が花の染物だったと書かれています。また『雪のなか』では、黒川能・上座の熊太夫の屋敷の土蔵にあった蜀紅錦の狩衣という衣装の裏地は現存する最も古い辻が花染であったという記述があります。
 室町時代の武将が好んだという「辻が花染め」は、縫締絞りの文様染ですが、江戸時代になると、より絵画的な細かい描写のできる「友禅染め」が考案されたため、姿を消してしまって、「幻の染め物」と言われています。

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 松皮菱草花菱模様辻が花染裂(東博所蔵)

 二十歳のとき、東京国立博物館で室町時代の「辻が花染め」の小裂に出会った久保田一竹は、その美に魅了され、過去の模倣でなく、現代に息づく染色としての独自の「辻が花」研究に心血を注ぎますが、その道のりは険しいものでした。召集、敗戦、シベリアへの抑留を経験し、十分な研究もできない日々を経たのち、1948年、31歳で無事復員した一竹は、生活のために従来手懸けていた手描友禅で生計をたて、40歳でやっと本格的に「辻が花」の研究に取り組み始めることができました。
 その後も失敗の連続で、20年間の辛酸をなめ尽くした研究の末、60歳で初めてひとつの
完成を迎え、これを「一竹辻が花」と命名します。
 
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一竹辻が花(HPより)

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「聖」(絵葉書)

 富士山に魅せられていた一竹は、富士の作品を10点完成させました。さらに春夏秋冬と宇宙を80作品で表現しようとした連作「光響」のうち、秋、冬と宇宙の一部を制作して亡くなります。いまも弟子たちが春と夏、宇宙の完成を目指して制作していますが、2024年の特別展では、34点を前期と後期に分けて展示しています。
 重量感のある作品をガラス越しではではなくて、近々と拝見できました。ずらっと並んだ色打掛は壮観です。
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 お昼時ですが、ランチの代わりに茶房「一竹庵」で茶菓をいただきました。

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 美しい練り切りは、4人とも違うお花でした。私は桔梗、R子は向日葵。富士山を象ったお干菓子の色もそれぞれ違います。打掛の形の豆皿はショップで売っていました。

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 分厚い一枚板のテーブルは、かつてアフリカでベッドとして使われていました。漆喰の壁には太陽が刻まれています。

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 窓の向こうは龍門の滝が落ちています。

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 隣接するショップ。

 このあと孫たちはバスとタクシーを乗り継いで「名物ほうとう不動・東恋路店」に向かいましたが、人数制限で入れず「小作」というお店に行ったんですって。恐るべし「推し活」。

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 「推し」が訪問して聖地になった名物ほうとうのお店。

 私は戦後の飢餓時代に家庭菜園で採れた、このうえなく不味いカボチャやサツマイモ、ツルムラサキ系のずるずるした野菜を一生分いただきましたので、どうしても手が出ません。あんな悲惨な時代が二度と来ませんように。

 中高年組は、もう一度、「一竹辻が花」を鑑賞し、映像で制作過程やや一竹の生前の姿などを拝見したあと、最奥の慈母像を目指しました。

 8月3日の11時少し前、ホテルからタクシーで久保田一竹美術館まで行きました。8分、9.5キロということでしたが、着いたのは11時32分です。初老の運転手さんは饒舌な方で、孫のボーナス自慢から始まって、銀座までお客さんを迎えに行ったお話や、周辺のご案内、帰りの交通案内までしてくださって、親切な方でした。途中で通過した観光名所の「もみじ回廊」は紅葉まつりのころは激込みだそうですから、近づかないことにいたしましょう。 

 ホテルからあまり遠くないところに久保田一竹美術館があると知って、行ってみたいと思いました。孫が興味があるか気がかりでしたが、「推し」の一人が訪問したそうで、すんなり付いてきてくれました。

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 右端の石柱に「一竹美術館」と彫られています。
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 正門はインドの古城に使われていた数種類の扉を組み合わせて造られています。門の上の部分は木立に隠れていまられてちりばめすが、門の右側に続いているのは龍のオブジェです。館内のあちこちにイ ンド、アフリカ、東南アジアのプリミティブアートが散りばめら
れています。

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 正門から新館までのアプローチの右側には、湧水が滾々と湧き出る池があります。

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 池の畔にもプリミティブアート。

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 アプローチや散策路、新館の回廊にはさりげなく椅子が置かれていました。

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 新館の近くに小さな滝が流れ落ちています。

 鬱蒼とした樹林の中の緩やかな坂道を登って、新館に着きました。ここでチケットを求めて、コイン返却式のロッカーに荷物を預けました。

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 入場券
 開館時間・入館料・交通案内|久保田一竹美術館 ITCHIKU KUBOTA ART MUSEUM (itchiku-museum.com)

 久保田一竹美術館は赤松の自然林の中、雄大なる富士と清澄な水をたたえる河口湖を望む絶好のロケーションに位置し、「本館」は1994年10月、「新館」は1997年7月に開館しました。「人と自然と芸術の三位一体」「新しい文化・芸術の発信地」を2大テーマとし、訪れる人々が潤いと安らぎを享受できる場所となることを目指しております。(HPより)

 新館は手積みによる琉球石灰岩(サンゴ等の堆積岩)の8本の円柱に支えられた回廊を持つ革新的な建築物です。床は同じ琉球石灰岩を敷き詰め、壁はサンゴを焼いて粉末状にし、ワラを混ぜて醗酵させ、手作業で塗った[沖縄漆喰]です。インテリアには、インド、アフリカ、東南アジアのアンティーク家具が使われています。

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 新館の入口。

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 ここにもインドの古城で使われていた木の扉。入口の円形の敷物はアンティークのお菓子の型を集めてつくられています。

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 内部は撮影できません。下掲の蜻蛉玉の写真はパンフレットとHPから拝借しました。
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 新館には、一竹がコレクションした貴重な蜻蛉玉(とんぼだま)を展示する「新館ギャラリー」の他、開放的な雰囲気で庭を見ながらくつろげる「ミュージアムカフェ」、蜻蛉玉のアクセサリーや、和雑貨などを扱う「ミュージアムショップ」があります。ガラスに色文様を施した蜻蛉玉は、紀元前3000年ごろに生まれました。ヨーロッパや西アフリカをはじめ、それぞれの地域によってさまざまなデザインが作られ、重要な交易品として世界中に流通しました。権力を誇示する象徴として、意味を持った第三の目として、人々の心の拠り所として、広まった先でさまざまな付加価値を持ちました。
 久保田一竹(1917~2003)
が蜻蛉玉と出会ったのは6歳の時です。骨董商を営んでいた父が引き出しに秘蔵していた数々の蜻蛉玉に心を奪われ、関東大震災で焼失したのちも忘れることができず、取材のかたわら、世界各国で蒐集しました。幼年期に受けたインスピレーションは、その後の一竹の制作活動に大きな影響を与えていますが、古代の人々の美意識を凝縮した小宇宙とも言うべき200点の蜻蛉玉のコレクションがギャラリーで見られます。
 昔話をさせていただくと、ツアーでシチリア島を訪ねたとき、ジャルディーニ・ナクソスのホテルに泊まって、自由時間に数人で考古学博物館に行きました。蜻蛉玉に特別な思い入れのある方がいらして、古代ギリシャの遺品を前に舞い上がっておられました。そのとき初めて蜻蛉玉の存在を知ったと思います。タオルミーナに泊まりたかったという不満は、博物館と考古学公園の散策で吹き飛びました。タオルミーナのホテルは、何年かあとで泊まりましたから、あの街に行けたのは貴重な思い出です。

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 プリミティブアートに囲まれた新館の展示室からカフェのテラス席に出れば富士山が見られたかもしれないのに、見損なってしまいました。(写真はHPより)

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 回廊にもアンチークの家具が置かれています。ここでピクニックランチはいかがでしょう。

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 奥の階段を登ると本館に入れます。階段の鉄製の手すりが火傷しそうな熱さでした。

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 駅前の雑踏とはかけ離れた素晴らしい環境です。


 夕食は18時30分でお願いしました。お食事処「燦ダイニング咲くや」のいちばん奥の個室です。

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 前菜 煮鮑 生雲丹 フルーツトマト 胡瓜 美味出汁ジュレ シャインマスカット 富士の介
    マスカルポーネ グリッシーニ 無花果田楽 海老雲丹粉 丸十桃煮 巨峰もずく酢 鱚酒盗     
    一夜干し

 初めて娘とペーザロに行った30年前の夏、生ハムをスライスしてもらって、グリッシーニにぐるぐる巻きにして、オペラの前の夕食にした日を思い出しました。昼食をとったレストランにも「富士の介」(ふじのすけ)というメニューがありましたが、山梨県水産センターが開発したニジマスとキングサーモンを交配したブランド魚だそうです。

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 御椀 鮎並葛打ち 長茄子 もろこし 院元 人参 酢立

 蓋をとれば富士山! いかにも、ですが、テンション上がります。

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 御造り 鮪 鱧梅肉 寒八 縞鯵 海老 あしらい色々 レモン塩

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 魚料理  鱸 甲州白ワインのクリームソース 蓮根チップ 甘長唐辛子 オマール海老 パッションアメリケーヌ

 鱸って? と言っていたら、孫がスマホを操作して「スズキ」。
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 肉料理 黒毛和牛 冷製フォアグラのフラン 

 フランってお菓子だと思っていましたが、茶碗蒸し感覚のフラン、初めていただきました。

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 煮物 煮穴子と大根白煮 芽葱 山葵 パプリカ

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 食事 モロコシ御飯 赤出汁 香の物

 これは娘に出されたものですが、係の方が左利きなのを察知して、お箸の向きを変えてくださったのは感動ものです。
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 水菓子 桃のブランマンジェ 葡萄

 平素はありえない多品種少量のお料理ですから、頑張って完食です。ご馳走様でした。

 朝食も昨夜と同じ場所でした。
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 トレイを持ってウロウロは大嫌いなので、こういう朝食は最高です。山梨県産の梨北米の美味しさに目覚めました。

 一人では絶対に無理なお食事がいただけて、とても幸せでした。

 温泉は客室露天風呂のほかに屋上の露天風呂「富士山」と一階の大浴場「赤富士」、庭園内の足湯がありますが、足湯に入る時間はありませんでした。

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 客室露天風呂からも富士山画見えます。源泉かけ流し、入り放題です。
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 私たちの部屋は9階で、一つ上が露天風呂「富士山」です。男女入れ替え制で、女性は18時までというので、ますは露天風呂へ。上り湯だけで、洗い場はありません。本来は部屋のお風呂か大浴場で体を洗ってこないといけないのですが、ごめんなさい、上り湯をたくさん浴びて入ってしまいました。三段になっていて、それぞれ温度と深さが違います。ほとんど貸し切り状態で、極楽気分。撮影禁止ですから、HPの写真をお借りしましたが、冬のほう頂くを冠した美しい山容が見られそうです。バスタオルと湯あみが用意されていました。

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 湯上りに燦里専用のクラブラウンジで寛ぎました。ルームキーをかざすと扉が開きます。

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 クラブラウンジ|燦里|お部屋|富士山の見える温泉旅館。富士山温泉ホテル鐘山苑公式HP

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HPから借用。

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 何度も入りましたが、いつも空いていました。
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 華道部スタッフが活躍して、あちこちに花が活けられています。織物関係の企業が母体になっているからでしょうか。上質の帯地などが敷物に用いられています。

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 庭園を眺めながらワイン。甲州産の赤・白・スパークリンワインや日本酒、生ビール、葡萄や桃のジュース、コーヒー・紅茶など、フリードリンクが18時までいただけます。ラウンジは7時から22時まで利用できますが、アルコール類の提供は14時から18時まで。

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 くっきりした富士山が見られなかったので、ラウンジの映像で補いました。
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 お食事処につながる廊下は、せせらぎが流れて、上賀茂神社の社家町を思わせます。
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 もう一度、社家町を歩いて、大田神社のカキツバタを見たい! 京都に行きたい!

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 野の花が野にあるように活けられています。
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 ロビーの壁は滝を模していました。滝壺に生け花の大作。
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 20時30分から浮舞台で従業員の方々の霊峰太鼓の演奏が行われます。娘が左端の大太鼓を叩いている方は、送迎バスの運転手さんだと言っていました。よく気づきましたね。img20240808_21193112
  大浴場「赤富士」パンフレットより

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 大浴場への通路前に大きな木彫のしめ縄が置かれています。小原流の東海林寿男氏が花器として造られたものだそうです。

  ルームキーを二つ渡されたのもポイントです。GRコードで込み具合がわかるサイトをダウンロードして、空いている時をめがけて一階の大浴場「赤富士」で疲れを癒し、クラブラウンジでのんびり。暑いときはこういう旅もいいですね。 

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 朝の富士山は少し靄っています。

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 「燦里」9階ロビー。5室だけなので、とても静かでした。あちこちに座れる場所があるのも嬉しい心遣いです。8月10日からスイートがオープンします。

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 エレベーターから見えるのは田園風景。太鼓のショーのときは、大勢の人が集っていましたが、部屋に入れば静寂そのもの。季節を変えて再訪したいと思わせる宿でした。「賑わいの宿でありながら、静寂の宿」というキャッチフレーズの通りです。
 一部、拵えすぎ感の漂うところもありますが、ほぼ満点。ただ、娘に言われるまで気づかなかったのですが、さりげなく差別化が行われていて、外面的にはスリッパや作務衣の品質で、どのランクの部屋にいるかがわかってしまいます。いい気持ちになりそうで自戒しました。貴賓室や別墅然然など、もっと上のランクがありますが、そういう身分ではありません。
 人手不足が叫ばれる時代に、心配りのできるスタッフの方がたくさん配置されているのも贅沢な感じです。 

 鐘山苑は、織物加工販売業を営んでいた企業が50年ほど前に設立したホテルで、平成5年に富士五湖初の温泉発掘に成功します。ホテルの名前は付近の鐘山という小さい山から取っていますが、明応4年(1495)に北条早雲が陣を張ったという記録のある「鎌山」が鐘山を指していると考えられています。伝承によれば北条氏が武田氏と戦った際、籠坂峠から甲府の武田本陣に合図を送るための中継地として利用されたようです。古代から烽火で情報を伝達したという伝えはありますが、鐘を突く回数が合図になったというのは初耳です。
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 鐘山苑は市街地から少し離れた森林地帯に位置する一軒宿です。今回は4人なので、少し広い「燦里」コンフォートというプランに決めました。
燦里|お部屋|富士山の見える温泉旅館。富士山温泉ホテル鐘山苑公式HP (kaneyamaen.com)

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 部屋の中に富士山が見える露天風呂と独立したシャワー室があります。冷蔵庫の中にはビールや各種の飲料が入っていて、すべて無料です。クローゼットには、甲斐絹で作られた作務衣、パジャマ、バスローブ。希望者は色浴衣も借りられます。孫はお揃いの浴衣に着替えました。とくにいいなと思ったのは、壁掛け式タオルウォーマーとテレビが2台あることでした。
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 一休みしたあと2万坪の庭園をめぐりました。
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 隣接してセントシュテファンチャーチが建っています。ウィーンのシュテファン大聖堂をモチーフにした建物で、結婚式場に用いられています。クリスチャンではないのに、神様の前で誓いを立て、アーメンと唱えるのはいかがなものかと思うのは、とんだ時代遅れでしょうか。ステンドグラスなどは、すべてウィーンの教会から持ってきたそうで、いやはや。

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 今年の春に開園したバラ園もありますが、桂川を取りこんだ広大な日本庭園は見事と言うしかありません。

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 清流庵内売店の額縁窓。

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 まずは茶室・清流庵でお抹茶。涼しいお部屋で庭園を見ながら、憩いのひとときを過ごしました。

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 休憩所「こもれび庵」では甘酒のお接待がありますが、ご遠慮しました。

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 桂川に架かるかつら橋を渡りました。山中湖を源流とする桂川がしぶきをあげて流れています。静かな木立のなかに響く水の音の心地よさ!

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 1500年前の富士山の噴火による溶岩流の岩盤の上を川が流れ下る「溶岩滑床渓谷」の美しい景観です。
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 龍神の滝は、えっ、これが!? という感じですが、目を凝らすと珠が見えますし、傍らの屋根付きの説明板にありがたい由緒が書いてありました。城山権現の化身の龍神が人々を守ってくださっているそうです。

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 もみじ庭園。
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 つつじ圓の満天星の季節は終わりましたが、って紫陽花はまだ咲いていました。

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 絶景スポット「富士の照」(ふじのテラス)は、険しい階段の上なので、ギブアップ。娘が写真を撮ってきてくれましたが、富士山は木が茂り過ぎて見えなかったそうです。

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 近ごろ流行りの花手水。そろそろ部屋に戻りましょう。

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富士の湧水 富士山の雨や雪解け水がは何十年もかかって基底溶岩を伏流して湧出した水です。富士の大地の天然の濾過作用を受け、水質の良い、おいしい、きれいな湧水です。どうぞご賞味ください。

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 鐘山温泉源泉 自然の恵み豊かな霊峰富士山の地下千五百メートルから湧出している鐘山温泉の源泉です。富士山の基盤で長い年月をかけて涵養され、高アルカリ性温泉(PH9.8)でありながら、成分的にはまろやかな全国でも極めて貴重な天然温泉です。

 夏のイベントの一つとして、「風鈴の小径」が設けられています。

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 茶室通路には鉄風鈴が130個、風に揺れていました。

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 こちらは夢寿美(むすび)通路の200個のガラス風鈴です。地元職人のオリジナルガラスが使われています。

 8月2日(金)
 孫娘R子は8月3日生まれです。今年はお誕生日を涼しいところで祝おうか、と言っていたら、金曜に有給が取れるというので、2日泊にしました。計画を立て始めたのが、6月初旬で、6か所ほど候補を挙げて、娘とああでもない、こうでもない。譲れない条件をクリアしたのが、富士吉田市の鐘山苑でした。6月の中頃に予約を入れて、次は交通手段です。最近、交通機関のトラブルが多いし、乗り換えが楽なほうがいいし、行きは渋谷から高速バスで河口湖駅まで行くことにして、予約開始の7月2日に高速バスを予約しました。河口湖駅と富士山駅発着の送迎バスは無料ですが、JR三島駅とJR御殿場駅発着のシャトルバスは有料で、往復7000円と5000円はちょっと割高。同じ道を往復するのもつまらないので、帰りは富士急と中央線を利用することにして、富士急の特急券は娘が取ってくれました。 
 当日は、渋谷マークシティ5Fから発着する富士急の高速バスの待合室に三世代女子4名が集合。50年も利用している井の頭線ですが、アベニュー口から出るのは初めてでした。この改札口から出ると高速バスの待合室に最短です。
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 1日に10便ほど発着していますが、富士山駅に着く便は僅少なので、渋谷10時30分発、河口湖駅13時10分着を選びました。大勢の人が集まるバスタ新宿に比べると発着する便数が少なく、ストレスはありません。ほぼ満席のバスに二子玉川から乗る方が加わって、さあ、東名高速道路と思ったら、自転車並みの低速! 工事渋滞で町田ICまで2時間かかって、河口湖のレストランの13時半の予約に間に合いそうもありません。車内は通話禁止と書いてあるので、ヤキモキしてしまいました。やっと御殿場プレミアムアウトレットに着いて、娘が飛び降りてお店に電話。なんだか落ち着かない道中になってしまいました。次に停車した富士学校は自衛隊の学校で、迷彩服を着た隊員の姿が目につきます。
 結局、50分ほど遅れて河口湖駅前に着き、徒歩3分のレストランに駆け込みました。河口湖駅に着く直前に外国人観光客が殺到して物議をかもしたコンビニの前を通りましたが、いまは黒幕ではなくて茶色の幕が張られていました。このあたりは標高が900mを超えているので、東京よりは過ごしやすいと思います。下の写真は借り物です。
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 在りし日の姿と現状。

 ランチはTOCORO. BAR&DININGでいただきました。駅前の名高い”ほうとう”のお店は長い行列ができていましたが、ここなら予約なしでも入れそうです。来店者はほとんど外国の方でした。
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 海老と蟹のトマトパスタのほか、パスタジェノベーゼや桃のカルパッチョなどをいただきましたが、予定より1時間遅れのスケジュールに焦って、写真はこれしかありません。
 電話すれば10分ほどで送迎バスが来てくださいます。富士急の河口湖駅を背にして右側の10番バス停が送迎バス用です。愛想のいい運転手さんの案内で、最初は私たち4人、富士山駅で5人が乗られて、10分ほどで鐘山苑に着きました。

 6月11日に所用で武蔵小金井まで行ったのですが、その2日前にX(Twitter)の「おにわさん」というアカウントに「はけの森美術館」の紹介記事が載りました。これぞ天啓と早めに家を出て、小金井市が運行しているCoCoバスに乗車。8人乗りのミニバスは制限時速20キロの狭隘な生活道路をしずしずと進みます。乗客のすべてが65歳以上。通常の料金は180円ですが、高齢者は10回分1000円の回数券が利用できます。
 「はけの森美術館」というバス停で下りて、十字路を右に折れると、巨木の茂るお宅があって、その隣が「はけの森美術館」です。

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  隣が「はけの森美術館」。

 小金井市立はけの森美術館一帯は、洋画家中村研一が終戦後移り住み、晩年まで過ごした土地です。旧宅の庭であった「美術の森緑地」の中には中村没後、夫人の中村富子氏が建設した美術館(平成16年に市に寄贈、平成18年より市立はけの森美術館)のほか、中村夫妻の住んでいた旧宅(現附属喫茶棟)、中村と建築家佐藤秀三の二人で相談しながら建てたと伝えられている茶室「花侵庵」が建っています。
 美術の森緑地は国分寺崖線の斜面にある緑地で、中村の作品の中にも庭の様子は度々描かれており、当時の風情を残している部分もあります。
 緑地の中心の池から湧き出る湧水は、東京都の名湧水57選に選ばれています。
 一帯は、古くは大岡昇平の小説「武蔵野夫人」の舞台となったと伝えられており、最近ではスタジオジブリの映画「借りぐらしのアリエッティ」のラストシーンの舞台のイメージとなっています。HPより

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 ところが、門前になにやら張り紙が。
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 あーあ。

 美術館の右側に見学を終えた小学生が集合していました。卒業アルバムに使うのでしょうか、美術の森緑地の門から出てくる子供をカメラマンさんが写しています。数分後には静寂が訪れました。
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 美術の森緑地の入口
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 竹林の中に北門まで続く階段を上りました。

 閉まっているのはわかっていましたが、外観だけでもと坂道を下ります。滾々と清水の湧き出る池にしばし見とれました。

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 木立の奥に旧宅(現喫茶棟)が見えてきました。
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 左が主屋、右が茶室・花侵庵です。 
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 中村夫妻と建築家・佐藤秀三が相談しながら建てた花侵庵。

 亡夫はいささかゆかりがありましたので、下記のサイトから佐藤氏の経歴を転記します。
建築家 佐藤秀三の世界 | 株式会社佐藤秀 (satohide.co.jp)

1914年、山形県工業学校建築科卒業後、住友総本店営繕課に入社。上司であった長谷部鋭吉氏(近代建築界の重鎮。日建設計創業者)の薫陶を受ける。その後、設計会社、施工会社勤務を経て、1929年、佐藤秀三建築工務所(現・株式会社佐藤秀)を創業。16代目住友吉左衞門氏をはじめ、住友系列企業・経営首脳の後援を足掛かりに、設計施工会社としての基盤を固めた。あくなき品質追求の姿勢が評価を受け、政官財界、文画壇の著名人、有名企業に多数の顧客を得るところとなる。木造の住宅、別荘、保養所を得意として手掛けたが、後年は木造大架構のホテルやクラブハウスに意欲的に取り組み、新境地を開いた。

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 花侵庵の露地の蹲居。庭園内には湧水を愉しむ仕掛けがたくさんあります。
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 イタリアの街を想起させる水場が主屋の前にありました。

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 喫茶棟に入っていた飲食店がコロナ禍で退店したあと、長く休業状態でしたが、今年の3月に「コマグラ」がオープンしました。当面は土日祝のみの営業だそうですから、美術館が再開したら、訪ねてみたいと思います。
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 美術館の側面です。

 国分寺崖線は、通称で「はけ」と呼ばれています。美術の森緑地の竹林の下から湧き出す水は、美術館の前の道を潜って100mほどの遊歩道に沿って流れ、その先は暗渠での側に注いでいます。木漏れ日にしっとりと浮かぶ「はけの小路」を歩いてみました。
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 せせらぎの音のなんと心地よいこと!

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 大きな木がかぶさっています。

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 この先は暗渠になります。30分に1便のCoCoバスミニで武蔵小金井駅前に戻ると、目の前に「サイゼリア」があったので、ものは試しと入ってみました。スマホにQRコードをダウンロードして、注文も会計もセルフというイタリアンのお店です。おひとり様で、あまり時間のないときはいいかもしれません。お味はそれなりですが、コスパは抜群です。14時に予約を入れた法務局に少し早めに着いたら、親切に対応してくださいました。

 ※公開したつもりでしたが、眠っていました。

  フリータイムが増えた娘に誘われて京成バラ園に行ってきました。3社の路線を座ったままで行けるタイムテーブルを調べてくれて、空いた電車で楽に往復できて、ありがとう。
 春は1600品種、10000株のバラが見ごろを迎えるということですが、やや盛りを過ぎたバラもありました。それでも圧倒的な美の競演と心地よい香りに包まれて、うっとり、うきうき。

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艶姿
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 最奥部の「スイレンの花咲く池」が黄菖蒲に縁どられていました。
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 桜の咲くころは見事でしょうね。
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「エアフロイリッヒ」
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「花見川」
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「京成バラ園 最古の株」
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桂由美さんデザインの「ローズ・ガゼボ」
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「シークレット パフューム」
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「プリンセス アイコ」
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「ケルナー フローラ」
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「C.D.ルイーズ」
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「ハンス ゲーネバイン」

 ここで12時。広いガーデンセンターで、バラの苗や肥料を買い込み、ローズ・ショップでお土産を探して、バスに乗りました。

 ランチは、八千代緑が丘駅1分のパッソ・ノヴィータに1時半で予約してあります。

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 ドルチェは撮り忘れました。柚子のシャーベットとカスタードプリン、生クリーム添えです。美味しかったけど、隣席のお嬢さん2人の甲高い大声、大笑いで耳が疲れました。
 買ってきた苗が花を咲かせますように。 


 バス停・綿貫団地南で下車して、進行方向に進むと、右側に不動山古墳が見えます。博物館南側の円墳も含めて、綿貫古墳群と呼ばれていますが、かつては24基と数えられた古墳のなかで現存する古墳は5基にすぎません。博物館南側の古墳は下の図の20番です。18番の岩鼻二子山古墳が戦時中に陸軍用地として削平されたのが惜しまれます。観音山古墳も戦後になって桑畑にする計画があったそうですから、よくぞ残ったものです。

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不動山古墳は残念ながら下から見上げただけです。

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 バス停は不動山古墳の近くです。進行方向に数十m行って最初の角を左折、道なりに数百m行って左折です。あろうことか屋敷林のあるお宅のところで右折してしまって、農作業をしている方に道を教えていただきました。 

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 バス停から徒歩4分は無理です。道を間違えたせいもあって10分以上かかりました。いまにも雨が降り出しそうな雲行きです。
 綿貫観音山古墳は墳丘の長さが97m、高さは9.6mで、二段に設計された墳丘の表面には葺石は施されていません。

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 二段に築かれた墳丘の平坦部に、600本を超える円筒埴輪や、人物、馬、器財、武器、武具、家などをかたどったさまざまな形象埴輪が並んでいました。博物館で埴輪の実物を見ながら、どういういきさつで発見にいたったかを知りたいと思いました。発掘調査の実施以前から墳丘の上から埴輪の破片が見つかっていましたが、大部分は発掘調査で見つかっています。見せるための埴輪が埋もれていった過程を知る手がかりはないものでしょうか。

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 昭和43年(1968)12月の第Ⅲ次調査の写真を見ると、現在の地表面から数十㎝下から出土しています。

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 開口部が見えます。落ち葉を掃き集めている方に挨拶したら、古墳の管理事務所の方でした。言葉を交わしているうちに盛り上がってきて、掃除は中断して石室を案内してくださることになりました。個人で見学する場合は事前の申し込みは不要ですが、絶対に見たいという方は管理事務所に問い合わせたほうが確実です。027-347-1134

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 昭和43年(1968)3月4日に発掘調査が開始され、3日目の3月6日に後円部上段墳丘で閉塞されたままの横穴式石室の入口の存在が確認されました。3月11日に入口を塞いでいた石を外しながら羨道を進むと未盗掘と思われる石室が姿を表しました。1400年間、盗掘に遭わなかった巨大石室の内部を初めて目にした方々の感動・興奮は察するに余りあります。

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 石室は、全長12.6m、最大幅3.9m、奥壁の高さ約2.3mの規模の両袖式横穴式石室で、遺骸を安置する玄室の面積は約30㎡です。棺がなく屍床に横たわっている例は、あまり知りません。

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 身体を極端にかがめないと石室に入れません。昭和10年(1935)の記録では群馬県で8423基が確認されています。二度の旅で数基は訪ねていますが、石室内を隈なく拝見するのは初めてです。すべての石材が1400年前に置かれたと思うだけでわくわくします。

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 管理人さんが電灯で照らして、ここに鏡があった、大刀はここにあったと詳細に説明してくださいました。石室の床面に川原石が敷き詰められていますが、奥壁から3m離れた位置に空間を仕切るように川原石が並んでいました。 

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 写真は発掘調査で主体部を覆っていた封土を取り除いたときの天井石の状況です。玄室の天井石は3石で、重さは奥から約22t、約16t、約12t、羨道の天井石も3石です。管理人さんは、上部から掘り下げようとした形跡があるが、天井石に阻まれて未遂に終わったと言われていました。鎌倉時代以降、盗掘が横行し、手つかずで発見される古墳は非常に稀です。
 未盗掘古墳では藤ノ木古墳が有名ですが、天皇陵古墳以外で盗掘を免れるにはいくつかのパターンがあるようです。
 ❶古墳であると認知されない形状だった。滋賀県・雲の山古墳など。
 ❷掘れなかった。
  幕府が守っていた。奈良県・藤ノ木古墳など。
  地震等で石室が崩落していた 群馬県・綿貫観音山古墳や奈良県・黒塚古墳など。
 ❸墳頂からかなり深いところに埋葬施設があった。

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 開口直後の石室の内部の写真を見ると、右側の壁の大部分が崩れ落ちています。
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 側壁と奥壁の石材をいったん搬出して、元通りに積んでいます。
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 現状の石室には、解体修理の際に付けられた数字が残っています。こういうことは管理人さんに教えていただかないと見過ごすところでした。一個だけ赤い石があるのは、何か意味があると言われていました。

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 壁に使われた石材は、鉄製工具を用いて、ほぼ同じ形に加工した加工石を用いています。

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 石材の表面になんらかの模様が刻まれているものが複数あります。その意味するところは解明されておりません。管理人さんは、神だと言われましたが・・・。それも含めて、1時間ほど、管理人さんの懇切な現地講義を承りました。
 副葬品や石室については、かなりわかったつもりですが、被葬者については、この地域の首長=王だということしかわかりません。歯と小さい骨片が出土したようですが、形質人類学的な成果はあったのでしょうか。
 綿貫観音山古墳が築かれた6世紀後半の東アジアに目を転ずると、中国では南朝と北朝が対立し、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅が鼎立していました。副葬品では、銅水瓶は北朝の北斉の貴族の墓からよく似たものが出土し、獣帯鏡は百済の武寧王陵出土の鏡と同型です。鉄冑は百済や伽耶で類似品が出土し、杏葉など馬具の一部や銅環頭大刀は新羅製と考えられています。このことから被葬者は生前、外交政策に積極的にかかわっていた人物であることは間違いなさそうです。その場合、物だけが動いたのか、人も動いたのか、そのルートは、となると、謎はつきません。古代の上毛野に渡来系の勢力がいたとすれば、どこから入って来たのかと尋ねると、管理人さんは新潟と言われましたが、はたしてそうでしょうか。
 出雲の渡来文化と朝鮮文化とのかかわりについては、四隅突出型墳墓のルーツは高句麗にあるのではないか、日本海沿岸地域のラグーンの実態を調査すべきだという意見がありました。新潟の潟はラグーンでは?。日本海ルート、ラグーンと渡来文化、興味があります。 

 タクシーを呼んでいただいて、感じの良い運転手さんとおしゃべりしながら高崎駅に着いて、朝、コインロッカーに預けた荷物を取り出して無事帰宅。タクシーの運転手さんに「とても楽しそうですね」と言われましたが、そのとおりです。

高崎ー東京 15:41-16:28 とき324号

歩数 13066歩

 国宝展示室はじっくり見ましたが、通史展示は興味のある遺物を中心に拝見しました。お久しぶりと感慨深かったのは、岩宿遺跡の石器たちです。

 昔々、教師をしていたときに、いちばん力を入れたのは、新学期最初の2週間でした。ここで生徒の心に響く授業をしないと、あとが大変です。導入で『岩宿の発見』の著者・相沢忠洋氏が行商で生計をたてながら、関東ローム層と呼ばれる赤土層から旧石器を発見し、日本における旧石器文化のパイオニアになったことを少し時間をかけて説明すると、日本史に興味を持ってくれる生徒が増えました。 

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 複製ですけど、火山の爆発で吹き上げられた火山灰が地上に降り積もってできた地層から出土した旧石器。

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 縄文時代後期の注口土器はそれほど珍しいものではありませんが、上から見ると扁平でラグビーボールのような形のものは希少です。隆帯で渦巻き模様を描き、それ以外の部分は丁寧に磨いていて、一見、縄文土器とは思えません。

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 古代のコーナーでは、木簡が目に止まりました。古代は紙が貴重だったので、木の板に墨で文字や絵を記しています。展示品は奈良県・藤原宮跡から出土した木簡のレプリカですが、左の木簡は上毛野国から都へ租税として納めるために運ばれた品物の荷札で、「上毛野国 車評 桃井里 大贄鮎」と書いてあります。品物を納めた人物の所在地を、国名、郡名、里名の順に書き、次にで「贄」すなわち租税の種類が示され、最後に納めた品物の名称を「鮎」と記しています。租税の一種である「贄」は、天皇や、宮中の神々へ献上する食料を意味し、「上毛野国」は、群馬県地域を指す7世紀以前の呼び名です。「郡」ではなくて「評」という文字を使った古い表記で、この木簡は7世紀後半に使用されたと考えられますから、古代の群馬県域とかかわる文字史料のなかでも、最も古い時期の史料です。「車」が好字2字を選べという政令で「群馬」と表記されるようになったことは多胡碑のところで触れました。 

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 中世、近世、近現代は、そそくさと通り過ぎましたが、最後に懐かしき「昭和なくらし、そしてスバル」でぐっときました。昭和は長いので、ここでいう昭和は昭和30年代だと思います。団地に住んで、働いて、二人の子どもを別々の保育園に預けざるをえなくて、徒歩で連れていくと職場に遅れてしまうため、必死で免許を取って月賦で買ったのがスバル360です。
 アナウンスがあって、11時から視聴覚室で展示品の解説があるというので行ってみたら、階段教室のような部屋に集まったのは7名でした。映像を使いながら、15分ほどレクチャーを受けましたが、解説員の方が質問に的確に答えられなかったのは残念でした。せっかく獣帯鏡のレプリカに触れる機会を提供してくださったのに・・・。とはいえ鏡が展示される場合は、必ず図像のある面が展示されますから、反対側を見る機会はめったにありません。思ったとおり、凸面鏡でした。そうなると、化粧用具などではなくて、首長の権威や巫女の霊力を示す威信財だったのではないでしょうか。

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 最後に「デジタル埴輪展示室」を拝見。最先端のデジタル技術を導入し、最も美しく出来映えがよいと言われる「塚廻り古墳群の埴輪」8体を実物展示しています。塚廻り古墳群は、群馬県太田市東部の水田地帯で土地改良事業を実施しているときに水田の下から発見された古墳群で、7基から構成されています。4基は帆立貝式前方後円墳で、他の3基も帆立貝式の可能性があり、どの古墳も埴輪を巡らせていて、円筒埴輪、人物埴輪、器財埴輪、動物埴輪などがたくさん発見されました。しかも原位置に並んでいるものが多く、古墳研究のうえで重要な資料となっています。
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 塚廻り古墳許君郡郡第4号墳の埴輪の配置

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廻り古墳群第4号古墳は、全長22.5mの帆立貝式古墳で、埴輪の特長などから、造られた時期は6世紀前半と推定され、在地首長層の墓と考えられています。

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挂甲の武人
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霊魂を守る弓矢と盾
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馬子と飾り馬
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椅子に座る首長と巫女
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祭礼に臨む侍女と侍従
 埴輪好きにはたまらない空間でした。
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 ランチは、県立文学館内の「森のレストランころむす」で古代米と地元の食材を使った松花堂御膳 をいただきました。真っ黒な古代米はちょっと不気味ですが、もちもちして美味しい。でも、古代人はこういうものを食べていたのでしょうか。
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 バス停前のツツジが綺麗。護岸の擁壁の鳥は謎だと思っていたら、群馬県の形が鶴の姿に似ているそうで、鶴サブレーまでありました。

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 ここまで来たからには、綿貫観音山古墳を見に行こうと決めました。

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群馬の森ー綿貫団地南 13:14-13:16 岩鼻線 15系統

 ぐるりんバスは10ほど遅れてやってきました。

  

4月23日(火)
 最終日は群馬県立歴史博物館の見学に充てました。2021年12月に高崎を訪ねたときは休館日で残念無念、いずれは、と思っていた場所です。

高崎駅東口ー群馬の森 9:08-9:36 ぐるりんバス 岩鼻線 15系統

 群馬県立歴史博物館は、群馬の森の中にありますが、群馬の森というと二つのことが想起されます。一つは、明治15年(1882)に、この地に陸軍の岩鼻火薬製造所ができたことです。二人の子どもが生まれた大阪の団地も陸軍の製造所の跡地で、朝鮮戦争のころ需要を見越して、ある企業が火薬の製造を再開しようとしたところ、住民の反対運動が起きて、住宅公団の団地になったといういきさつを思い出しました。もう一つは、直近に起きた「朝鮮人慰霊碑」の強制撤去です。過去の歴史を直視することを拒否する人たちが大声を発して行動するのは残念でなりません。
 広い群馬の森の正面入り口から徒歩5分のところに県立近代美術館と県立歴史博物館が建っています。博物館は1979年に開館し、2016年に大規模改修工事を終えてリニューアルオープン。2020年に国宝に指定された綿貫観音山古墳の出土品を常時展示する国宝展示室は、「すべて実物、すべて国宝」を謳い文句にしています。

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 「巨きな馬」アントワーヌ・ブールデル作 1914ー1917年

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 博物館の南側に綿貫市ヶ原1117所在古墳があります。墳高1.5mの円墳ですが、未調査のため詳細は不明です。

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 申し訳ありませんが、だるまにはあまり関心がないので、「春の特別収蔵品展」はスルーしました。ホールに入ると、国宝展示室が人々をいざなっています。

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 国宝展示室の入り口(HPより)。
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 最初に綿貫観音山古墳の復元模型を見ながら、解説を聞きました。要所に映像が配置され、解説の音声が流れるのは、理解に非常に役立ちます。

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 まず目を奪うのは、入口付近の埴輪群像(祭礼場面)です。「胡坐を組み合掌する男子」「三人童女」「正座し祭具を捧げる女子」「皮袋を捧げる女子」は、出土状況から対面する配置が復元できました。
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被葬者(=王)の生前の姿と考えられる「胡坐を組み合掌する男子」は、高さ114cm。裾に鈴をつけた上衣を羽織り、腰には鈴付大帯を巻いていて、とても鈴が好きなようです。正面からの写真は撮れなかったので、ガイドブックからお借りしました。以下※がついているのはガイドブック所載の写真です。

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 「三人童女」のように台座に三人が正座した女子埴輪は他に類例がありません。弦をつま弾く楽人だと考えられています。

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 埴輪の出土状況です。複数の人物埴輪の基部が古墳完成当時の位置のまま発見され、大量の埴輪片の接合復元を経ることで、どの位置にどちらを向いて立っていたかを正確に把握することができました。

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 「両手を腰にあてる振り分け髪の男子」と「甲冑をまとう武人」は、被葬者(=王)と王を守護する武人だと想定されています。

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「馬形埴輪」は、権威や財力の象徴である「馬」の所有を示すために樹立されました。観音山古墳には十数体の馬形埴輪が前方部基壇面に列をなし、馬子が伴います。

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 右の頭部を欠損する「馬形埴輪」は、高さ144cmの群馬県内最大級の埴輪で、馬具に数多くの鈴が付いているのは、王の嗜好を表しているのかもしれません。

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 左から「帽子形埴輪」「盾形埴輪」「普通円筒埴輪」2点、「朝顔形埴輪」。

 副葬品は豪華で極めて充実しています。銅鏡、装身具、武器、馬具、金属製容器、土器などのなかには、朝鮮半島や中国からの搬入品の可能性のあるものがたくさんあります。

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 出土した2面の銅鏡のうち1面は霊獣を帯状に半肉彫りした「獣帯鏡」で、百済の武寧王陵と伝滋賀県三上山下古墳から発見された2面の鏡と同型のものでした。武寧王陵は中国南朝(梁)の文化の影響が強く見られる石室や出土品を持っていたことから、この獣帯鏡も梁との関係が示唆されます。武寧王陵鏡と三上山下古墳出土の鏡は同一の鏡を原型として制作され、観音山古墳鏡は、三上山下古墳の2面のうちの1面を原型として制作されたと考えられています。

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 銅水瓶は、古代インドの土器に由来し、仏教の伝播とともに中国に伝来しています。蓋は上部に擬宝珠状の鈕、裏には蓋の落下防止を意図した銅板がピンセット状に付いていますが、中国・山西省の北斉の庫狄廻洛‣夫人合葬墓の出土品と似ているそうです。

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 装身具の中で全国で3例しかない金銅大帯は、出土時の写真に見られるように、丸く輪になり、背中側を石室内部に向けて置かれていました。最大の特徴は銀製の鎖で吊り下げられた20個の金銅の鈴で、こういう例は唯一です。

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 これを初めて見た方が羨ましい! 盗掘されなくてよかったですね。

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 太刀と太刀の違いについては、昨年訪ねた出雲の博物館の項で触れているので、重複は避けますが、観音山古墳に副葬された刀は4本とも大刀です。簡単に言えば、古墳時代の刀はすべて大刀。上の銀錯龍文捩り環頭大刀と下の金銀装頭椎大刀は、倭の伝統的な大刀作りに朝鮮半島のデザインや金属加工技術を加えたものです。
 
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 「鉄冑」は竪矧板鋲留式突起付冑に分類される冑です。この時期の冑は衝角付冑が普及していて、朝鮮半島南部地域の冠帽付冑の系譜を引く竪矧板の突起付冑は希少だと言われています。頂部に冠が載るのを表す特殊な形が韓国月山里出土の冑と共通しています。

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 馬具は、4セットが副葬されたと推定されています。左は環状鏡板付轡、右は金銅歩搖付雲珠と辻金具。
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 前は鉄地金銅張心葉形鏡板付轡、後ろは金銅歩搖付飾金具。
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 鉄壺鐙は、乗馬の際に足を乗せる馬具です。

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  金銅心葉形杏葉の起源は朝鮮半島の新羅地域に求められ、慶州市鶏林道4号墓の例も中央に忍冬唐草文の透かし彫りが施されています。 

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 土師器は2点、須恵器は19点出土しています。

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 吊り手(上)と125個の金銅半球形飾金具(スパンコール)の出土から、被葬者は下の図のように、カーテンの奥におびただしいスパンコールを縫い付けた布で覆われて葬られたのではないかと想像されます。吊り手の例は国内では奈良県の藤ノ木古墳、韓国の武寧王陵などで確認されていて、半島系の要素を備えています。

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 あまりにも内容が濃すぎて、呆然としたり、わくわくしたり、こういう凄いものをじっくり拝見できたことを感謝しました。


  山名古墳群をバスの中から見て、あとで寄ろうと思っていましたが、果たせませんでした。山名古墳群は、6世紀中ごろから7世紀前半に造られた古墳群で、発掘調査の結果、山名伊勢塚古墳(前方後円墳)のほか、帆立貝形古墳1基、円墳14基、形態不明1基、合計17基の古墳があることがわかりました。

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山名八幡宮

 山上碑から山名八幡宮まではバスで10分です。12時5分に八幡宮前に着くと、13時25分までバスはありません。運転手さんもお昼休みが要りますよね。

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 駐車場の端のバス停から上信電鉄の線路の下の地下道を潜って山名八幡宮の前に出ました。省エネを図ってお参りは階段の下で。山名氏の祖の義範が宇佐神宮の分霊を勧請して社殿を造営し、武運の神として崇敬したと伝えられています。本殿・幣殿は18世紀後半の建造だそうです。

 高崎市山名町は山名氏の発祥の地です。山名氏というと、応仁の乱で細川氏と争ったというイメージが強く、山陰地方に大きな勢力を持っていた守護大名だと思っていましたが、ルーツは東国です。
 清和源氏の嫡流で八幡太郎と呼ばれた源義家の孫・義重が新田の祖となり、新田義重の子・義範が上野國多胡郡山名に住んで山名三郎を称して、山名氏が始まります。南北朝の争乱に際して尊氏側についたため、室町幕府では赤松氏・一色氏・京極氏とともに四職と呼ばれる要職に就いたのはよく知られています。
 山名で行こうと思っていたのは「こちら、学校前食堂」。200円の「ありがとうチケット」を求めると、子ども食堂開催時に一人の子どもが無料でご飯が食べられるそうです。
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 「野菜たっぷり田舎風」
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 サラダは、なんと100円です。

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 「石文之路」と刻んだ石碑は貫禄があります。
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 山名八幡宮の入り口に「太刀割石」がドーンと置かれています。慶長5年(1600)、井伊直政の許しを得て、馬庭念流中興の祖、樋口又七郎定次が天真流村上天流と試合をするにあたって、山名八幡宮に参篭し、21日目の満願の日に、琵琶の木剣でこの石を断ち割った、その後、烏川の畔で村上天流を破ったと伝えられています。井伊直政が高崎藩の初代藩主だったとは知りませんでした。

 13時25分のバスは5分後に金井塚碑着。ここの階段は山上碑に比べると、はるかに楽ですが「イノシシに注意」の張り紙!

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 杖が置いてあります。親切!

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 現代語訳
 上野國群馬郡下賛郷高田里に住んでいる三家🔲(🔲は欠字)が、先祖と父母の為に、いま主婦の立場にある他田君頬刀自、その子どもの加那刀自、孫の物部君牛足、妹ひづめ(馬ヘンに爪)刀自、その妹の若ひづめ刀自のあわせて6人、また既に仏教の教えで結ばれている三家毛人、その弟の知万呂、鍛冶師の磯部君身麻呂のあわせて3人が仏の教えにより、一族の繁栄を願ってお祈り申し上げる石文である。
 神亀3(726)年2月29日


 金井沢碑は、奈良時代の初期に三家氏を名乗る氏族が同族とともに仏教の教えで結びつき、祖先の供養、一族繁栄を祈るために建てた石碑です。
 三家氏は、山上碑に記された佐野三家(屯倉)を経営した家族の末裔とみられます。碑文の冒頭に刻まれている地名から居宅は現在の高崎市南部の烏川東岸にあったようですが、金井沢碑や山上碑は烏川西岸にあるため、佐野三家の領域および三家氏の勢力圏は、烏川両岸に及んでいたと思われます。
 碑文には9人の名が刻まれ、その関係は願主で男性の三家🔲(🔲は欠字)とその妻、子、孫からなる6人の直系血族と同族3人からなる既存の信仰グループが結びついて、この碑を建てたとする説が有力です。碑文からは、女性が結婚後も実家の氏を名乗り、子どもとともに実家の祖先祭祀に参加していることがわかり、家族のつながりに女性が大きな役割を果たしていたと考えられます。夫婦別姓について、日本の伝統に反すると反対する方に、この碑文を見ていただきたいものです。
 さらに大宝律令以後に定まった行政制度(国郡郷里制)の施行が確認されるほか、郡郷名を好字で二字にするよう命じた和銅6年(713)の政令の実施も確かめられます。これにともない、従前の「車」の表記は「群馬」(読みは、くるま)に変わり、いまの県名のもとになっています。「群馬」(碑文では「羣馬」)の文字は、在地では最古の用例です。

 三碑は、いずれも建碑以来その場にあったと思っていましたが、金井沢碑については、烏川の河川敷にあったものを現在地に移したという資料があります。洪水等で押し流されたのをもとの場所に戻したのか、あるいは神亀のころに行われた慈善活動、たとえば架橋碑のような性格を示したものか、よくわかりません。江戸中期に土中に埋もれていたものを見つけて、農家の庭先で洗濯石として使用されていたという話も伝わっています。

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 木製の階段を下りていたら、教育委員会の方に出会いました。イノシシの件を伺ったら、出没するのは夜だそうです。

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 静まり返った山里ともお別れです。三碑を訪ねて出会ったのは教育委員会の方だけでしたが、心配になって運転手さんに尋ねると、前日は8人のグループが利用されたと伺って、少しほっとしました。5分で山名八幡宮に戻って、上信電鉄山名駅から高崎に戻りました。歩いた距離は大したことはないのですが、山上碑の石段が足腰を怒らせて、ホテルに戻ると、もう動けません。

歩数 11280歩 

4月22日(月)

 土日に出発すると、日程に月曜日が入ってしまいます。月曜日は休館日だらけですから、上野三碑をめぐることにしました。高崎市は9時から14時30分まで50分間隔7便の「上野三碑めぐりバス」を1月1日を除いて無料で運行しています。ただし、定員9名で、満員の場合は乗車できません。10人目になったら大変、というのは杞憂で、4か所で下車・見学して、5回利用しましたが、すべて”おひとりさま”でした。薄曇りで肌寒い陽気は、暑いよりははるかに楽。バスは上信電鉄・吉井駅前から発車します。

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 バスの扉が開いていたので、中で待っていたら、しばらくして女性の運転手さんが現れて、暖房を入れてくださいました。女性と男性の運転手さん2人で運行しているようで、それぞれ3回と2回お世話になり、なんだか顔見知り気分。バスの中に置いてあった資料は、非常に内容が充実しています。

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 上野三碑は、群馬県(古代上野國)の高崎市南部地域にある飛鳥・奈良時代に造立された三つの石碑の総称です。日本国内に現存する平安時代以前の古碑は18例ですから、この地域における3例の集中は非常に注目されています。
 三つの碑文から、1300年前の地方行政制度、古代豪族の婚姻や氏族のつながり、仏教思想の広がりなど、多くのことが明らかになりました。
 石碑を建てる文化は、中国から朝鮮半島を経由し、飛鳥時代に日本にもたらされました。当地の豪族の地域経営には、新羅系渡来人が参画し、三碑の造立にも大きな影響を与えたと考えられています。

 吉井駅を9時50分に発車したバスは、10時に多胡碑に着きました。多胡碑は桜や藤の花で彩られた「吉井いしぶみの里公園」の中に建っています。史跡多胡碑と刻んだ石柱は、判読できないほど古びていました。バスは下りた場所に50分後にやってきます。

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 多胡碑は覆屋の中に収められていて、ボタンを押すと、照明が点灯し、解説が流れます。ガラス越しですから碑文は明瞭には見えませんが、1300年前からこの場所に建っていたという重みは迫ってきます。 

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 3月に修理が終わったばかりで、笠石の向きも修正されたので、下の図の笠石と形状が違っています。
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 以下は、碑文の内容です。
 朝廷の弁官局から命令があった。上野圀片岡郡・緑野郡・甘良郡の3郡から、300戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せる。郡の名は多胡郡にしなさい。和銅4(711’)年3月9日に命令が伝えられた。左中弁・正五位下多治比真小人から送られた天皇の命令書である。太政官・ニ品穂積親王、左大臣・正二位石上尊、右大臣・正二位藤原尊。

 多胡郡の建郡に際して「羊」という人物を郡司に起用したと理解するのが主流で、『続日本紀』和銅4年3月辛亥の条の「上野圀甘良郡の織裳・韓級・矢田・大家・緑野郡の武美、片岡郡の山等の6郷を割いて、別に多胡郡を置く」という記述とも合致します。さらに郡の役所を構成する正倉の発見によって、多胡郡建郡は、文献史料、石碑、遺跡の三つの資料が残る日本古代史上唯一の事例となりました。「胡」は渡来人のことで、渡来人が多く住んでいたので「多胡郡」です。
文中の穂積親王、石上尊(石上麻呂)、藤原尊(藤原不比等)は、盛りすぎでは?

 地元では羊太夫伝説が伝わり、羊さまとして親しまれています
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 「羊さまの榎」は、明治41年に中村不折が多胡碑とともにスケッチして、朝日新聞で全国に紹介しています。
 多胡碑は「書」としても注目されています。中世以来、長い研究の歴史があり、江戸時代後半には朝鮮通信使を通じて中国にもその書風が知られていました。下の写真は、群馬県立歴史博物館に展示されているレプリカですが、これがいちばんクッキリしています。
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 公園内には歌碑や顕彰碑がたくさん建てられていますが、一例だけ。

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  深草のうちに埋もれし石文の
   世にめづらる時は來にけり 

 楫取泰彦は吉田松陰の義弟で、初代群馬県令を務め、多胡碑の保存に尽力しています。

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 多胡碑記念館は休館でしたが、その前の広場に古墳が2基移築復元されています。古墳の移築という事例は初めて知りました。

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 4世紀末から5世紀初頭にかけて築造されたと推定される片山1号古墳は、墳丘径32.6m、墳丘高4.5mの円墳で、粘土槨の主体部に割竹形木棺が納められ、内行花文鏡、鉄剣、鉄斧、管玉などが出土しています。

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 南高原1号墳は、鏑川右岸の台地上にあった神保古墳群を構成する古墳の1基で、発掘調査ののち、この地に移築されました。墳径17m、低い基壇を有した二段築成で、埋葬施設は横穴式石室です。築造年代は7世紀代と推定されています。

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山上碑 
 10時50分にやってきたバスは、11時5分に山上碑バス停に着きました。ここだけは道が狭いので、100mほど歩かなければなりません。のんびりと山里の若葉を愛で、小鳥の鳴き声に聞き惚れながら石段の下に着いたときは11時11分でした。
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 ここから坂道を登ります。

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 石段の下でしばし呆然。ここで引き返すわけにはいきません。
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 何も知らずに来たので、三郡坂東の札所窟堂址(馬頭観音)の説明板を転載します。私も錯覚していた一人ですから。

江戸時代の中頃、旅をおぼえた民衆は、名所古跡を訪ね、古来の札所を廻った、西国33所の観音札所であり、坂東の札所である。しかし一般の庶民にとって、これら長距離の札所は高嶺の花で、とうてい順礼(ママ)することは出来ない、そこで考え出されたのがミニ観音札所や、四国88ケ所になぞられた新四国である。この国指定の山の上の古墳の中に馬頭観音が祀られ、窟堂と呼ばれる観音堂が建てられ、石段が積まれたのは何時の頃か、明和6(1769)年には多胡郡・緑野郡・北甘楽郡内の坂東33所遷しの4番札所に選ばれたが、時は流れ、お堂は失せ、札所の伝えも忘れられて、あたかも史跡への石段であるかのような、錯覚のみが残っている。 


 数えながら登ったら166段ありました。手すりがあるのが救いです。
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 3碑はすべて覆屋の中です。山上碑は飛鳥時代の681年に放光寺の僧(長利)が母のために建てた完全な形で残る日本最古の石碑です。

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 現代語訳を転記します。
 辛己歳(681)10月3日に記す。佐野三家の管理官となった健守命の子孫の黒賣刀自、この方が新川臣の子の斯多弥足尼の子孫の大児臣に嫁いで産んだ子の長利僧が、母(黒賣刀自)の為に記し定めた文である。 放光寺の僧。

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 碑文は、佐野三家を管理した豪族の出身である黒売と、その子の長利の系譜を述べたもので、隣接する山上古墳に埋葬されたとみられる黒売の追悼供養碑の性格も併せ持っています。
 三家(屯倉)は、6世紀から7世紀前半にかけて各地の軍事・経済的要地に置かれたヤマト政権の直轄地で、佐野三家は高崎市南部の烏川両岸にまたがって設置され、現地豪族と中央から派遣された技術者によって経営されていました。
 健守の子孫の黒売が赤城山南麓の豪族の新川臣の子孫の大児臣と結婚して長利が生まれ、長利は碑文の末尾に自分の立場を明記しています。長利が務めた放光寺は前橋市の山王廃寺だと推定され、山王廃寺は当時は東国で最古・最大の寺院でした。
 碑文は日本語の語順に漢字が並べられており、現在につながる日本独自の漢字の使用法の原形です。自然石をあまり加工しない碑の形状は新羅の石碑に類似しているので、造立に関して新羅系渡来人が深くかかわったと推定されています。山王廃寺跡の周辺には新羅系の金冠を出土した山王金冠塚古墳がありますから、機会があれば訪ねたいものです。

山上古墳
 山上碑の東隣に墳径15mの円墳があります。

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 奥行7.4mの横穴式石室は古墳としては最末期の7世紀に造られました。山上碑が建てられた681年より数十年古いので、黒売刀自の父の墓として造られ、のちに黒売刀自を追葬したと考えられていますが、他家に嫁いだ女性が実家の墓に埋葬されているのは、古代の家族制度を知るうえで重要です。
 石室の奥に鎌倉時代後期の馬頭観音像が祀られています。

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 観音堂があったころの名残でしょうか。古い石塔が隅のほうに集められていました。

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 石段は下りのほうが恐怖でした。

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 麓に万葉の歌碑がありました。この歌は万葉学者の中西進氏が愛唱歌の一つに挙げられています。

 吾が恋はまさかも悲し草枕多胡の入野のおくもかなしも 東歌 巻14・3403

 「まさか」は「正か」で、まさしくという意味。「入野」は山のほうに深く入り込んだ野。

 バス停に戻りながら見つけたのが「来迎阿弥陀画像板碑」の解説板です。祠に入っていて見られませんが、健治4年(1278)の銘があるので、鎌倉時代の板碑だとわかります。

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 板碑を入れた祠にはガッチリと南京錠。

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 バス停から山上碑のある山を眺めているとバスが来ました。

4月21日(日)

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 駅前広場の山本有三の記念碑です。『路傍の石』は中学生時代の愛読書でした。山本有三は栃木市の生まれで、蔵の街大通りに江戸時代の見世蔵を改修した「山本有三ふるさと記念館」が建っています。我が家の近くの「山本有三記念館」と区別するために「ふるさと」を入れたのかしら。今回は見逃した場所が多いので、機会があれば再訪します。
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 午前9時23分の駅前広場は閑散としています。日曜日だから?

 栃木ー足利 9:58-10:30 JR両毛線
 足利ー通6丁目 10:50-10:56 生活路線バス「あしバスアッシー」御厨線

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足利は、2015年にフラワーパーク、栗田美術館、鑁阿寺、足利学校を見学していますから、今回は特別公開の物外軒に絞りました。「あしバスアッシー」で6分の車内は、またしても”おひとりさま”。バス停から徒歩2分ということでしたが、西も東もわからないので、自転車に乗った男性に道を尋ねたら、ご存じない。知名度が低いのですね。ご親切にスマホで調べてくださって、行き方がわかりました。「こんなところに茶室があるのか。知らなかった」と言われていましたが、バス停前の信号を渡って、バス通りから直角に進んで右折です。下の地図の織姫公民館北側という情報がわかりやすいと思います。

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 物外軒は茶室と庭園から構成されています。茶室は、江戸時代から回漕問屋を営んでいた萬屋の三代目長四郎三によって渡良瀬河畔の猿田河岸にあった邸内に建てられました。長四郎三は、豪商であったばかりでなく、漢詩・和歌・俳句を嗜み、書画・骨董の収集にも通じる教養人でしたが、この茶室を愛して、自らの雅号の「物外」にちなんで「物外軒」と名付けました。
 明治34年(1901)に足利の柳田家が譲り受け、現在の場所に移築されました。昭和48年(1973)に当時の所有者の鈴木栄太郎氏から足利市に寄付され、現在にいたっています。生憎と言っては申し訳ないのですが、当日は盛大なお茶会が開かれ、和服を着こなした方が続々と来られたので、お茶室は外から眺めただけです。
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 内露地の蹲居の水鉢は太田道灌が建てた江戸城・富士見亭の礎石を譲り受けたと伝えられ、京都の鞍馬石が使われています。蹲居の海には水琴窟が作られ、竹筒で涼しい音を聴かせていただきました。

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 足利市教育委員会の方が丁寧に庭園を案内してくださいました。庭園は茶室に付随する二重露地(内露地・外露地)と北側の築山と池部分から構成されています。作庭時期は不明ですが、柳田家がこの地に屋敷を構えたときに作庭され、茶室を移転した際に庭園も整備されたと考えられています。
 樹木は赤松とモミジが主体で、この時期は青モミジが爽やかです。

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 門から茶室に向かう石畳。

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 振り返れば。
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 山野草も植えられ、希少な金蘭が咲いていました。金蘭は人工栽培が極めて難しく、絶滅危惧種です
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 居室から庭園に向かう園路に据えられた更紗石は、高価な石だそうです。
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 茶室北側に築山と池から構成される庭園があります。池には江戸中期に流行した鶴亀信仰を取り入れた鶴島と亀島が造られています。20240421_113056turu

 鶴島です。
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 右側に突き出ているのが亀島です。

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 居室に上がり込みました。
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 居室で教育委員会の方とゆっくりお話ができました。田中正造と幸徳秋水や正造の妹のこと、群馬県吉岡町の森田本家の一日だけの公開のことなど、有益な情報もいただけた楽しい時間でした。玄関脇には染型紙を貼った衝立もあります。

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 裏門はお茶会のために特別に開かれていて、ここから退出しました。隣は織姫公民館です。

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 柳田家住宅。

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 原田家住宅。

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 以下は現地に建っていた説明板の丸写しです。

 足利の織物産業は、江戸時代後期より盛んになりました。
 正面右手に建つ柳田家は、足利が絹織物産地化した明治20年代から、生糸商として繁栄しました。通りに面して明治24年建築とされる事務所(旧住宅店舗)、大正期建築の表門・倉庫(旧西蔵)が並んでいます。昭和53年、旧国道50号線の拡幅に伴い、約4m曳家移築されました。この際に一部改修されましたが、生糸商を営んでいた当時の外観を良く残しています。
 左手に建つ原田家は、明治30年頃開業した生糸・撚糸を扱う織物原料糸商でした。現在残されている店舗は大正9年頃の建築といわれ、明治から昭和初期にかけて多く建てられた切妻平入2階建て、下屋付き店舗の形式を良く残しています。また、昭和17年建築の主屋も、戦前の中廊下式和風住宅の形式を留めています。柳田家住宅同様、現在地に曳家移築されました。
 柳田家住宅・原田家住宅ともに、織物の町として繁栄した足利における、通り沿いに商家が建ち並ぶ景観を残す建物として貴重であり、平成17年に登録有形文化財となりました。足利市教育委員会


 先ほど教育委員会の方に教えていただいたのですが、なんと正造の妹リンの嫁ぎ先が原田家です。リンは原田新三郎と結婚し、長男の定助は叔父の正造のよき理解者であり、足尾銅山鉱毒事件を糾弾する運動を資金面で支えた人物でした。前日、訪ねた栃木の岡田家が足尾銅山の経営者に資金を提供したのと比べると、あまりにも生き方が違います。正造は明治34年(1901)に明治天皇に直訴状を渡そうとしますが、直訴状の草稿を書いたのは名文家で知られ、のちに大逆事件で斃れた幸徳秋水だと言われています。
 平成29年(2017)に私的な旅行で栃木県を訪問中の天皇・皇后(現上皇・上皇后)が佐野市の郷土博物館で直訴状の実物を熱心にご覧になったのを知った原田家の子孫・原田定子氏は「生きていれば、きっと喜んだはず」との感慨を漏らされたそうです。下記は直訴状の一部です。

伏て惟るに東京の北四十里にして足尾銅山あり、其採鉱精銅の際に生ずる所の毒水と毒屑と久しく澗谷を埋め渓流に注ぎ、渡良瀬川に奔下して沿岸其害を被らざるなし。而して鉱業の益々発達するに従ひて其流毒益々多く、 加ふるに比年山林を濫伐し、水源を赤土と為せるが故に、河身変して洪水頻りに臻り、毒流四方に氾濫し、毒屑の浸潤する の処茨城栃木群馬埼玉四県及其下流の地数万町歩に達し、魚族斃死し田園荒廃し、数十万の人民産を失ひ業を離れ飢て食なく病て薬なく、老幼は溝壑に転じ壮者は去て他国に流離せり。如此にして二十年前の肥田沃土は、今や化して黄茅白 葦満目惨憺の荒野と為れり。


 同じ銅山でありながら、鉱毒問題を起こさなかった別子銅山と比べると、経営に当たる方の人間性の違いではないかと思いながら、バスを待ちました。「あしバス アッシー」御厨線の時刻表を見ると、ため息が出ます。
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 通6丁目ーJR足利駅 13:04-13:15 「あしバスアッシー」御厨線

 ランチは足利駅南口のココスプーンでと思っていました。昭和33年(1958)、障害を持つ中学生と担任教師によって開墾された葡萄畑の麓に昭和44年(1969)に障害者施設「こころみ学園」が設立され、さらにココ・ファーム・ワイナリーができて、学園の園生たちも葡萄畑や醸造場で頑張っています。ココスプーンはココ・ファーム・ワイナリーが運営するレストランです。

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 鉄道関係の建物を改修した大谷石造りのお店です。

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 足利マール牛のローストビーフランチは評判通り美味でした。

 足利ー高崎 14:43ー15:47 両毛線

 この日はあまり歩かなかったせいで余力があります。高崎駅西口のホテルに荷物を置いて、18時まで開館している東口の高崎市立タワー美術館に行きました。おもに日本画を収集している美術館で神戸智行が太宰府天満宮に奉納する襖絵の原画が展示されています。来館者は3名でした。

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 神戸智行は、極めて薄い和紙と彩色を重ねる独自の技法を用い、繊細な表現で注目されている日本画家です。太宰府天満宮の襖絵を依頼されたのを機に、大宰府に移住し、10年の歳月をかけて24面の襖絵を描き上げました。完成したばかりの襖絵を拝見できる機会を得て、有益な時間を過ごしました。絵葉書を買ってきましたが、とうてい原画には及びません。

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 福岡の老舗和菓子屋鈴懸の掛け紙などを含めて50点ほどの作品が3階と4階に展示されています。

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 大宰府ですから梅ですが、魚や昆虫にも目が向けられています。
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上掲の写真2点はHPからです。

歩数 7943歩

 岡田記念館前ー藤沼酒店前 13:09-13:13 ふれあいバス 

 このあとの行程ですが、歩く距離と人が少ない場所を選びましたので、見逃し感満々です。
 
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 ふれあいバスが貸し切り状態なのは、行く末が案じられます。市役所が東武百貨店と同居しているのに驚いていると、ほどなく藤沼酒店前に着きました。目の前の白と青に塗り分けられた建物は栃木市立文学館です。

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大正浪漫が香る木造2階建ての洋風建築と、栃木市の象徴でもある〝蔵”をモチーフにした新築の建物を使って、2022年に文学館と美術館がオープンしました。場所は栃木市役所本庁舎跡地。水路沿いの蔵の街散策の新たな立ち寄りスポットになっています。(HPより)

 この場所に旧栃木市役所がありましたが、諸事情で先ほどの場所に移転し、市立文学館と市立美術館に生まれ変わりました。さらに遡ると、ここは宇都宮に移転する以前の県庁所在地で、「県庁堀」と呼ばれる堀に囲まれた静かな地域です。

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 「美術館・文学館ひろば」にキッチンカーが2台出店していたので、まずランチ。土曜の午後だというのに、人影はまばらです。
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 ベンチでローストビーフをいただきました。アルフォンス・ミュシャ(1860~1939)の展覧会は、キッチンカーの青年が「じっくり観られますよ」と言われたとおり、来館者一桁です。
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 チラシ掲載の「スカートをたぐる少女」は初公開だそうです。チェコ生まれのアール・ヌーヴォーを代表する芸術家ですが、サラ・ベルナール主演の舞台ポスターで一躍、有名になりました。尾形寿行氏のコレクションが大部分で、写真は撮り放題です。
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 わざわざ栃木で見なくてもと思わないでもありませんが、旅自体、行き当たりばったりですから、いいのです。ロレンザッチョという人物に興味があって、四季の舞台を見に行ったことなど思い出しました。
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 オペラの「メディア」は、ジェノヴァで2度、見ましたが、「トスカ」はあまり・・・。

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 「原故郷のスラブ民族」(クリアファイル)

 スラブ叙事詩は、縮小写真の展示でしたが、記念に「クリアファイルを買ってきました。2017年の新国立美術館での圧倒的な迫力と比べてはいけません。

 収蔵品の展示を行う「展示室C」で福田たねの椎茸の絵を拝見。久留米で記念館を訪ねた青木繁の妻だった方です。


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かつて県庁が置かれていたので「県庁堀」と呼ばれる堀に囲まれた地区に建つ聖アルバン教会。

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県庁所在地の名残ですね。
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    巴波川に続く堀に沿って「麻荢真縄問屋 荷揚場」がありました。ずっと横山家の板塀が続きます。

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 横山郷土館は、明治時代の豪商、横山家の資料を展示しています。初代当主の横山定助は、栃木の特産品である野州麻に着目し、江戸末期に麻問屋を起業しました。麻は衣類だけではなく下駄の鼻緒や漁網などに用いられ、麻問屋として財をなした横山家は金融業に進出します。先ほど訪ねた岡田家の三号館にも「野州麻加工道具展示室」という立札がありましたから、麻が地場産業だったようです。

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 建物の右側が麻問屋跡で、右側の石蔵は麻蔵でした。15kgの麻束が2万束以上保管されていたそうです。

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 左側の文庫蔵には、銀行関係の書類が保管されていました。

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 文庫蔵は展示室になっています。
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 巴波川沿いに上下2段の道が続いていて、下の道を巴波川綱手道と呼んでいます。江戸時代に舟運の水路だった巴波川は湧き水などもあって流れが速く、江戸からの帰りは下の道から麻の綱で舟を曳いたので、この名があります。

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 巴波川は「うずまがわ」と読みます。地名は難しい! 川沿いにベンチが置かれ、鯉のぼりを泳がせる川風をしばし楽しみました。バスの便が少ないのが残念です。

 藤沼酒店前ーJR栃木駅 15:45-15:59 


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 「ホテル シャンブル」は、2021年にオープンした環境負荷低減を目指す次世代型ホテルです。チェックインはロビーに置かれた端末に名前を入力すると、カードキーが出て来ます。全くの非対面型ホテルは初めてですが、静かで清潔で駅に近いから満足しました。

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歩数 8726歩

  2021年12月に高崎に寄ったとき、群馬県立歴史博物館は休館日でした。これだけでも高崎は再訪しなければなりません。さらに城下町小幡に行くため利用した上信電鉄の高崎駅構内に上野三碑のレプリカが置かれているのを見て、いつか訪ねたいと思っていましたが、健康寿命が尽きないうちに両方をというのが今回の旅の発端です。欲張って、栃木と足利も加えました。
 
4月20日(土)
 中央線のラッシュを避けて土日祝を出発日に選ぶのが最近の習わしです。9時台でも土曜日は楽勝。3月に栃木県の益子や真岡を巡ったときに手にしたガイドブックに「蔵の街とちぎ」が紹介されていて、なんとなく興味がわいたという浅薄な理由で栃木→足利→高崎という両毛線の旅になりました。栃木まで一番楽に行けるルートで浮かんだのが、昨年、日光に行ったときのスペーシア日光です。新宿駅での乗り換えも成田エキスプレスと同じ5・6番ホームですから、慣れない人が迷子にならないよう配慮されています。

 新宿ー栃木 スペーシア日光1号  9:34-10:51 

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 栃木で下りる変人は私だけでした。駅前の観光交流館の方が善意の塊! ふれあいバスの時刻表をくださって、あれこれとお世話になりました。
 栃木市は蔵の街と呼ばれますが、蔵があるのは、そこに入れておく物資や資金があったということであり、蔵の街として発展したのは、北関東有数の商都だったからです。元和3年(1617)に徳川家康の棺が日光山に改葬され、朝廷からの勅使が日光東照宮に毎年参拝するようになりました。勅使を例幣使ということから、勅使が通る道は日光例幣使街道と呼ばれています。栃木はこの街道の宿場町となり、人や物が集まるようになったのが商都として発展するきっかけだと言われています。
 さらに発展の原動力になったのは、巴波川の舟運による江戸との交易でした。江戸時代の終わりごろに豪商たちが巴波川の両岸に沿って建てた白壁の土蔵がいまも残されています。

 JR栃木駅ー岡田記念館前 11:23-11:40 ふれあいバス「市街地循環線(西回り)」

 最初に岡田記念館と翁島別邸を訪ねました。
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 門前の石柱に「畠山陣屋」と彫られています。🅿付近には日光例幣使街道と記した石柱が立っていました。
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 岡田家は、550年以上の歴史を持つ旧家で、4000坪に及ぶ敷地に残る土蔵に岡田家伝来の宝物が展示されています。祖先は関東管領上杉憲政に仕えていましたが、上野国平井城が落城したのち、この地に帰農しました。
 
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 日光例幣使街道に面し、かつて郵便局として使われていた建物を利用してカフェや売店を営んでいます。
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 大門を潜ると左側に受付があります。
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 大門から入って受付に行くと、上品で美しい老婦人が岡田家の歴史や見学順路、はては維持の苦労話や身の上話を語ってやみません。あとで館長の岡田陽子氏だと知りました。先代から相続したときの相続税が1億4000万を超えていたとは驚きです。益子に行く「はとバス」が寄ってくれて、代官弁当をお出ししていたので、なんとか払えたそうです。ご子息の26代目は栃木駅前でクリニックを営む医師ですが、HPにご苦労の一端を綴っておられました。

 岡田家は、後醍醐天皇より岡田姓を賜り、徳川家より下賜された嘉右衛門を襲名して26代になり、栃木に住んで16代になる。武士より帰農し、栃木に移住して荒れ地を開墾した。日光例幣使街道開設に伴い名主役を務め、畠山氏の知行地になると代官職を代行し、13ヶ村を治めて、地域発展に寄与した。
 代々当主は美術にも関心が深く、富岡鉄斎、松根東洋城、板谷波山などと親交があり、宝暦10年から146年分の日記も保存されている。(岡田嘉右衛門家由緒書より)

 いただいた図面通りに見学しましたが、工事が中断されたままの箇所もあり、胸が痛みます。

①理髪館
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 敷地内には市村理髪館の建物が残っています。市村理髪館は栃木県最古の理容所で、江戸時代に出張理容を営んでいた業者が岡田家の一角を借用して明治初期に開業し、平成元年(1989)まで営業していました。開業当初は「一見さんお断り」の格式高い店だったそうです。店内には廃業時点まで使っていた器具などがそのまま残っていて、平成29年(2017)に全国理容生活衛生同業組合連合会から理容遺産の認定を受けました。建物、椅子、鏡、鋏は創業当時から使ってきたものです。

②陽月亭
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 趣のある近代和風建築で、お茶席、句会などに使用されています。

③一号館
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 白壁の土蔵が展示館になって、宝物がたくさん並んでいます。華麗な金屏風、紺糸威鎧(早乙女家親作)、備前水指、江戸中期花見道具一式、鎬蒔絵などが展示されています。
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 鉄斎の掛軸や清初染付、鉄斎作のお盆など。

④二号館
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 平成27年(2015)の「関東・東北豪雨」で巴波川が氾濫し、JRの駅舎や駅前の郵便局も一週間ほど機能しなくなりましたが、岡田家も大きな被害を受けました。2号館も雨漏りで展示物が水を浴び、くっついてしまった古文書3冊の修復に43万円かかったそうです。2号館はやっと再開されたばかりですが、3号館はまだ公開されておりません。見世蔵だった展示室には、元禄時代の花嫁衣裳、鐙、行器(ほかい 儀礼の際に食事を運ぶ容器)、大名火鉢、陣羽織、陣笠、裃、火消し装束、子供鎧、烏帽子、鉄砲などが展示されています。ドーンと置かれていたのは荷物を運ぶ駕篭です。

⑤三号館

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 まだ修理中で、明治時代に酢や油を製造していたときの道具、麻の加工道具などが雑然と置かれていました。

⑥岡田稲荷

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 遠くから眺めただけです。
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 まだブルーシートや足場が見られ、庭園の手入れもたいへんなようです。

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 「文政十年二月廿日 小田原侍従大久保加賀守藤原忠真寄進」と記されています。えっ、大久保忠真って、小田原藩主で幕府の老中を務めた人ですよね。徳川家の家紋が入っているそうですが、よくわかりませんでした。

⑧代官屋敷(陣屋)
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 代官屋敷にはお白洲もありました。
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 1679年、畠山基玄は高家となった。畠山基玄は、足利氏の流れをくみ、応仁の乱のきっかけをつくった畠山政長を祖としている。1685年、下野国都賀郡内において500石、1688年には1000石、1689年には2900石と加増を受けて、摂津国の領地を含めて総高5000石の知行となった。そして、都賀郡内の領地を管轄するために、例幣使街道に面している岡田家に陣屋を設けた。畠山氏は、以後代々高家を継ぐこととなる。

 室町時代には細川氏・斯波氏とともに三管領として幕府を支えた畠山氏の江戸時代の姿を垣間見ることができました。

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 陣屋と母屋をつなぐ一枚板の渡り廊下です。
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 陣屋の玄関ですが、屋根が傾いて見えるのが心配です。 
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 上杉家から寄進された灯篭だそうです。
 
 岡田記念館から100mほど離れて、翁島別邸が建っています。

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 茶室の奥の主屋は、足場とブルーシートで覆われ、廊下もカーテンがかかっていたので、全貌を拝見できませんでした。翁島別館は、大正3年に22代当主の隠居所として建てられました。22代岡田嘉右衛門は、古河市兵衛の足尾銅山経営に渋沢栄一とともに大口出資を行い、鉱毒解消用石灰の供給に尽力しています。隠居所の用材は、すべて木曽産の檜で、大正期を代表する木造建築です。

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 源平合戦を描いた枕屏風は「なんでも鑑定団」に登場したそうですが、鑑定の結果の情報はありません。
 巴波川のせせらぎを心地よく聞きながら、翁島別邸をあとにしました。館長さんがほとんど独りで頑張っていらっしゃるのが痛々しい感じです。これだけの規模の屋敷を個人で持ちこたえるのは限度があります。公的な援助が得られないものでしょうか。

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 「ふれあいバス」が来る13時9分まで隣接するカフェ「物華」で一休み。4人掛けのテーブルが4卓の小さなお店ですが、品のよい佇まいに魅了されながら店主が心をこめて淹れてくださったコーヒーをいただきました。

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